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時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 明応9年9月1日(1500年9月24日) |
別名 | 勝信(細川家文書)、久之(永源師檀紀年録)、黙雲蒿木、春台居士[1] |
官位 | 民部大輔、阿波守?[2] |
幕府 | 室町幕府 和泉半国守護 |
主君 | 足利義尚 |
氏族 | 細川和泉下守護家 |
父母 | 父:不明(細川奥州家の人物か[3])、養父:細川持久 |
兄弟 | 政賢?[4] |
細川 基経(ほそかわ もとつね)は、室町時代中期の守護大名。和泉半国守護。
従来、確認されている系図では勝信(細川家文書)や久之(永源師檀紀年録)という名前であるとされてきた。しかし、岡田謙一によって本来の名前が基経であったことが判明した[3]。和泉下守護家の通字である「久」の字が名前に使われていないことから、養子であるとされ、細川奥州家の人物であると推察されているものの、具体的な実父は不明[3]。
文明17年(1485年)には、和泉国で国一揆が発生したのを、細川和泉上守護の細川元有とともに鎮圧している。この際、基経は既に守護であったため、守護就任はこれ以前と推察されている[3]。
『蔭涼軒日録』延徳元年(1489年)11月12日条によれば、先代の和泉下守護であった細川持久が、基経との不和によって出奔したという。
明応4年(1495年)には、元有と共に畠山尚順と手を結び、本家筋の細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。このため、尚順とは対立するようになった。
『後慈眼院殿御記』明応9年(1500年)9月1日条によれば、神尾合戦の影響で基経と元有が自害したという[3]。