Type a search term to find related articles by LIMS subject matter experts gathered from the most trusted and dynamic collaboration tools in the laboratory informatics industry.
福井 三郎(ふくい さぶろう、1857年5月27日(安政4年5月5日[1][2])- 1935年(昭和10年)12月7日[1][3])は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。
美作国真島郡、のちの北条県真島郡木山村[1](岡山県[3]真島郡下方村、真庭郡下方村、木山村、落合町木山[1]を経て現真庭市木山)で、福井真兵衛[注釈 1]の二男として生れた[1]。讃岐国の中村三蕉に師事し漢学を修めた[1]。北条県伝習所で普通学を学び[1]、同所が岡山県師範学校と改称し[1]、1875年(明治8年)卒業した[1][2][3]。
訓導、岡山県3等教授として小学校で教える[1][2][3]。1876年(明治9年)上京して私立学舎で学ぶ[1]。1881年(明治14年)甲府日日新聞(現山梨日日新聞)記者となり[1][2][3]、峡中新報主幹に転じた[1][2][3]。1886年(明治19年)盛岡の共同煉瓦会社東北本部長に就任した[1]。
1892年(明治25年)農商務省御用掛に任官[1][2][3]。1894年(明治27年)日清戦争に際して朝鮮に渡り[1][3]、1896年(明治29年)同地で排日運動が起きると、鶏林奨業団を組織して団長に就任した[1][2][3]。その後帰国して憲政本党の政務調査員となった[1]。
1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(岡山県郡部、憲政本党)で初当選[1][4]。以後、第14回総選挙まで5回再選され、衆議院議員に通算6期在任した[1][3]。立憲国民党勢力下の岡山県で政友会の党勢拡大に奮闘し、県北の鉄道敷設に積極的に取り組んだ[1]。