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三代目 江戸家猫八 | |
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1956年ごろ | |
本名 | 岡田 六郎 |
生年月日 | 1921年10月1日 |
没年月日 | 2001年12月10日(80歳没) |
言語 | 日本語 |
師匠 | 二代目江戸家猫八 |
芸風 | 声帯模写 |
事務所 | 落語芸術協会 |
過去の代表番組 |
お笑い三人組 鬼平犯科帳 |
親族 |
初代江戸家猫八(父) 五代目江戸家猫八(孫) |
弟子 |
四代目江戸家猫八(長男) 江戸家まねき猫(次女) 江戸家猫ハッピー(三女) |
3代目江戸家 猫八(さんだいめ えどや ねこはち、1921年10月1日 - 2001年12月10日)は、物真似師、俳優。落語芸術協会に所属していた。本名は岡田 六郎(六男だったため、六郎と名付けられる)。愛称は江戸猫。
父は初代江戸家猫八。落語家の三遊亭歌司は長女の夫、四代目江戸家猫八(初代江戸家小猫)は長男、江戸家まねき猫は次女、江戸家猫ハッピーは三女、五代目江戸家猫八(二代目江戸家小猫)は孫(4代目猫八の長男)。
広島に原爆が投下された1945年8月6日当時、23歳の猫八は同市内宇品(現・広島市南区)に駐屯する陸軍船舶砲兵第1連隊(暁2953部隊)の「岡田六郎兵長」として軍務に従事していた。当日朝は地方巡業中の移動劇団「桜隊」の一員として広島に滞在していた旧知の女優・園井恵子と会う予定であったが、前日の軍旗祭(連隊記念祭)で声帯模写を披露し獲得した優勝賞品の酒を飲み過ぎ、二日酔いで寝坊したため朝の点呼に遅刻し園井と会うことができなくなった。そして部下の初年兵に起こされた直後に原爆投下に遭遇した(このとき園井は爆心地に近い宿舎で被爆し、神戸まで避難したものの8月21日に原爆症で死去)。
しかし連隊が置かれていた宇品は爆心地から3km以上隔たっていたため直接の被害は少なく、猫八は比治山町の船舶砲兵団司令部との連絡を取るため御幸橋方面の被害状況の偵察を上官から命じられ、初めて惨状を目の当たりにすることになった。その後彼は暁部隊の一員として市内の救援・医療活動に動員されたため、市内に高度に残留していた放射線に被曝、復員後は生涯にわたって二次被爆が原因と思われる体調不良と戦い続けることとなった。
被爆時・事後の救援・医療活動動員での体験は、猫八にとってあまりにも悲惨で生涯トラウマとなるほど忌まわしいものであったため、長い間この体験は語られなかったが、後年「兵隊ぐらしとピカドン」「キノコ雲から這い出した猫」を著して自らの被爆当時を記している(同様に暁部隊の一員として被爆した人物には、司令部付きの兵卒であった思想史家・丸山真男がいる)。
ほか
自ら車の運転をしていたが、自宅の車庫が非常に狭く、常に車庫入れの際は車庫の壁と車の隙間が数センチ単位での微調整を余儀なくされており、車庫入れの模様をワイドショーやバラエティー番組などで放送されることもあった。
中央競馬の馬主としても活動しており、中央競馬で10勝を挙げた他京成杯3歳ステークス、東京4歳ステークスで2着に入ったキヤツトエイト(同馬の甥にオペックホースがいる)などを所有した。
『鬼平犯科帳』に出演していたこともあり、所属していた落語芸術協会の同僚である桂歌丸から中村吉右衛門のサインをもらってほしいと仲介役を頼まれたことがあったという。これは吉右衛門と歌丸の接点が直接なかったためとのことだが、猫八没後に吉右衛門は「(歌丸が)照れ屋さんだったんでしょうね」と頭をなでながら語っている。
実は猫が苦手で、猫好きの三女江戸屋猫ハッピーが保護した捨て猫を飼うことに反対していたが、結局名前も付けて家に迎えたことがある[2]。