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星一 | |
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生年月日 | 1873年12月25日 |
出生地 | 福島県 |
没年月日 | 1951年1月19日(77歳没) |
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス |
出身校 | コロンビア大学 |
現職 | 実業家、政治家 |
所属政党 | 民主党 |
称号 |
従五位 勲三等瑞宝章 |
配偶者 | 精 |
星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)は、日本の実業家、政治家。星製薬の創業者であり、星薬科大学の創立者。長男はSF作家の星新一、次男は日揮常務の星協一。
それまでは輸入に頼っていた、外科手術に不可欠なモルヒネの国産化に成功する等、「東洋の製薬王」と呼ばれた。星製薬はチェーンストアという販売方式を日本で初めて確立した。野口英世やフリッツ・ハーバーのパトロンとしても知られる。
通称、ホシピン。
現在の福島県いわき市出身。子供の頃、いたずらで放たれた矢が右目に突き刺さり失明。それ以後は義眼を入れていた[1]。
1894年(明治27年)東京商業学校(現東京学園高等学校)を卒業[2]。高橋健三らの知遇を得る。同年10月、横浜からアメリカのサンフランシスコへ渡る。1896年(明治29年)コロンビア大学に入学。在学中に新聞事業を始め『ジャパン・アンド・アメリカ』を創刊[3]。1901年(明治34年)コロンビア大学政治経済科を卒業[3]。修士号取得。
1905年(明治38年)上手くいっていなかった新聞事業を譲渡、所持金400円を携えて日本に帰国[3]。1906年(明治39年)湿布薬「イヒチオール」の事業化に成功。
1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙に福島県郡部区から立候補し、当選。無所属で独自の活動を行う。
1911年(明治44年)星製薬を設立。五反田に当時としては画期的な近代的製薬工場を建設。ホシ胃腸薬のヒットや日本で初めてキニーネの製造をするなど発展し東洋一の製薬会社と言われるほどになる。
1918年(大正7年)SF小説『三十年後』発表(アイディアは星、文章化は江見水蔭)[4]。
1922年(大正11年)星製薬商業学校を設立。1923年(大正12年)戦友共済生命保険を買収し、社長に就任。1924年(大正13年)フリッツ・ハーバーを日本へ招待する。以後、生涯に渡って物心両面で彼を援助する。
後藤新平へ政治資金提供を行った縁で台湾阿片払い下げを独占していたが1924年に後藤が失脚、1925年(大正14年)阿片令違反で起訴される(その後無罪判決)[3]。解剖学者小金井良精の次女、せい と結婚。1926年(大正15年)長男・親一が誕生(後の星新一)。名の由来は、モットーとしていた「親切第一」から。1926年(大正15年)太平洋製薬設立[5]。1929年(昭和4年)次男・協一が誕生。名の由来は、モットーとしていた「協力一致」から。
1930年(昭和5年)破産申し立てを受け、翌年に宣告を受ける(後に取り消しが認められ、強制和議になる)。1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙で2回目の衆議院議員当選。1945年(昭和20年)星製薬は空襲で主力工場を破壊され、敗戦で海外拠点を失うが、再建に努める。
1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙に3回目の衆議院議員当選。1947年(昭和22年)第1回参議院議員通常選挙全国区に民主党から立候補して最多得票で当選。
1951年(昭和26年)1月19日、ペルーへの日本人移民計画のために訪れていたアメリカカリフォルニア州ロサンゼルスで肺炎により客死、77歳[6]。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈(勲四等からの昇叙)、従五位に叙される[7]。星製薬は息子の親一が継いだが既に経営は傾いており、親一は会社を手放して、後にSF作家星新一となる。
星一が設立した星製薬はその死の前後から急激に経営が悪化し、大谷米太郎のもとで再建が行われた。その後「株式会社テーオーシー」(略称TOC)と改称し、販売部門を分離独立して新たな子会社として「星製薬株式会社」が設立された。2003年、TOCの製薬部門とその販売部門である上記「星製薬株式会社」が統合され、製造ラインを持つ新・新「星製薬株式会社」が誕生した。ただし、収益の大半は不動産事業によるものであり、製薬事業部門の寄与度は小さい。
一方、会社創立時に社内に設置した教育部は「星薬業講習会」へと発展し、「星製薬商業学校」→「星薬学専門学校」を経て、現在の星薬科大学の母体となった。戦友共済生命保険は昭和金融恐慌の際に経営が悪化し、第一徴兵保険に保険契約を包括移転した。
作家鈴木俊平は妹の孫にあたる。