斉藤 斗志二 (さいとう としつぐ、1944年 〈昭和 19年〉12月27日 - )は、日本 の政治家 。衆議院議員 (7期)、防衛庁長官 (第65 代・66 代)を歴任。
経歴
大昭和製紙 の2代目社長・斉藤了英 の次男として生まれた[ 1] 。静岡県 吉原市 出身[ 2] 。
麹町中学校 ・武蔵高等学校 を経て[要出典 ] 、1968年 (昭和43年)に上智大学経済学部 を卒業[ 3] 。1969年 (昭和44年)早稲田大学理工学部 研修終了[ 3] 。1972年 (昭和47年)ワシントン大学 でMBA を取得[ 3] 。
1984年 (昭和59年)には第33代日本青年会議所 会頭に就任した[ 2] 。同会頭就任時には第2次中曽根内閣 の臨時教育審議会 委員を務め、現行の小学校6年生を中学校1年生とし、早熟な今時の子どもの発育状況に合わせ、中学校 の在学期間を延長し中等教育 を充実させることを目的とした学制改革案5・4制 を提唱した。現在も5・4制は主張し続けている。また、このころよりロシア 外交に興味を持ち、両国の友情を描いたアニメーション映画 『幕末のスパシーボ 』の自費制作や訪露を頻繁に行っている。
衆議院議員から静岡県知事 に転身した叔父・斉藤滋与史 の後継者として、1986年 (昭和61年)に行われた第38回衆議院議員総選挙 に出馬し初当選[ 2] [ 注 1] 。以来、連続7期当選。議員在任中の1989年 (平成元年)大昭和製紙取締役副社長に就任。1992年 (平成4年)郵政政務次官就任。当時の郵政大臣 は郵政民営化 を掲げた小泉純一郎 であり、当時の省内では反郵政民営化の政務次官として期待された。1995年 (平成7年)には自由民主党 通信部会長(NTT分割再編)に就任。
党内では田中派 →竹下派→小渕派→橋本派→津島派 と所属し、1993年 (平成5年)羽田孜 ・小沢一郎 などの新生党 結成による自民党議員の大量離党行動には参加せずに党内へとどまった数少ない平成研究会生え抜き議員の一人であった。
2000年 (平成12年)12月5日 、第2次森改造内閣 の防衛庁長官 として初入閣。中期防衛力整備計画の策定を行った。1997年 (平成9年)衆議院 商工委員長、1999年 (平成11年)衆議院地方行政委員長、2003年 (平成15年)には衆議院イラク復興支援特別委員長(自衛隊イラク派遣 を議決)を歴任。
2009年(平成21年)8月30日 の第45回衆議院議員総選挙 に出馬したが落選。その後、同年8月31日をもって政界から引退することを明らかにした[ 4] 。
2015年 (平成27年)4月29日、春の叙勲で旭日大綬章 受章[ 5] 。
年金
所属団体
所属していた議員連盟
親族
祖父は大昭和製紙 の創業者・斉藤知一郎 [ 7] 、義父は厚生大臣 を務めた増岡博之 [ 1] 、叔父は静岡県知事 ・建設大臣 を務めた斉藤滋与史 である[ 7] 。後に滋与史と養子縁組を行っている[ 8] 。なお、齊藤滋与史夫人の和歌子はトヨタ自動車 名誉会長豊田章一郎 の妹である[ 7] 。また、元大昭和製紙社長の斉藤喜久蔵 も叔父であり[ 7] 、大昭和製紙の監査役を務めた斉藤知三郎 とジーク証券 元会長の斉藤四方司 は弟[ 7] 。
斉藤斗志二は増岡博之の長女と結婚しているが[ 1] 、増岡の次女は三菱鉛筆 社長の数原英一郎 と結婚しているので[ 9] 、斉藤斗志二と数原英一郎は義兄弟の関係にあたる[ 9] 。
政治的立場
著書
参考文献
脚注・出典
出典
注釈
衆議院地方行政委員長
衆議院商工委員長
防衛庁長官 (第65・66代:2000年 - 2001年)
保安庁 移行までの長官等
保安庁長官 防衛庁 長官防衛大臣
保安庁長官、防衛庁長官は国務大臣としてのもの