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投石(とうせき)とは、石を投げること。飄石(ずんばい、づんばい)とも。投石機やスリング等の指摘がない限り、ヒトが人力で投げることを指す。その用途は、直接的な攻撃から挑発・脅し、威嚇、遊び、悪戯に至るまで多様である(後述)。
ヒトはもっとも上手に物を投げられる動物である[1]。原人から新人にいたるまで、投石はもっとも基本的な狩猟の攻撃方法だった[2]。動物を倒すには遠距離から一方的に攻撃する方が安全であるため、弓矢を発明するまではもっぱら投擲によって戦っていたと考えられている。チンパンジーやゴリラも糞や木を投げる行為は見られる。
人間対人間の闘いでも、投石は重要かつ効果的な戦術であった。現代のように舗装されていない土地が多く、武器となる石を見つけるのは容易であった。弓矢に比べて風の影響を受けにくく、鎧ごしに打撃を与えやすいと言う特徴がある。『旧約聖書』(紀元前4-前5世紀)に登場するペリシテの巨人兵士ゴリアテは小柄なダビデの投石で打ち倒されるなど、古代から体格の不利を補う威力をもつと知られていた。
『漢書』(2世紀)巻70延寿伝の記述として、護衛官昇進試験として投石が用いられている。
日本の平安時代の貴族は、従者を用い、他の貴族の牛車に投石をさせて、嫌がらせや苦情を行っており、『小右記』1013年(長和2年3月30日条)の記録では、藤原能信の従者が源懐信の牛車に投石を行ったことが記述されている(「藤原能信」の「経歴」も参照)。また『大鏡』第4巻「隆家」に記された花山院(10世紀末)の逸話として、院が、「我が(邸宅の)門前を牛車で通り抜けられ(る者はおる)まい」と仰せ、これに藤原隆家が反応して向かうも、門前には荒法師や大・中童子、合わせて7、80人が、大きな石を持ち、5、6尺の杖で待ち構え、隆家は退却したと記述される(「藤原隆家」の「人物」も参照)。
13世紀、スイスバーゼルにおいて投石競技シュタインシュトッセンが行われる(ドイツ語版参照)。
16世紀初めの1509年9月に開催されたドイツ「アウクスブルク射撃競技大会」の様子を描いた1570年ごろの写本の挿絵には、徒競走・競馬に加えて、石投げ競技が見られるが、人間の頭部並みに大きな石を片手で振りかぶっている[3]。
小動物が相手であれば、跳弾の要領で1匹以上を仕留められた事から、17世紀のイギリスでは「一石二鳥」の四字熟語の元となったことわざが生まれた(当項目を参照)。
投石の特徴として、投石のみで相手に致命傷を与えるのではなく、痛手を与えてさらに攻撃を加える、または逃げることができる点がある。特に顔面や目への投石は効果が高い。現代においては防犯用のカラーボール、喧嘩や護身術として相手に多数の硬貨やパチンコ玉、砂を投げつける行為(投擲)も、広義の投石と言える。
現代で投石を行うのは武器を規制されている暴徒などである。または、国によっては子供の悪戯の手段としてもしばしば行われており、フィリピンやウルグアイでは鉄道車両の窓の外側に投石による被害を防止することを目的とした金網やアクリル板[4]が張られていることがある[5]。列車に対する投石に関しては、戦後しばらくの日本においても盛んに行われており、1949年7月5日付けの参議院・議事録には、運輸省鉄道監督局長の報告として、「投石と発砲による事件が134件で、鉄道事件の過半数である」としたものがある[6]。
国境紛争が拡大・悪化しないための暗黙の手段として国境沿い兵士が投石を行うことがあり、中印国境地帯で2020年5月に起きた摩擦でも投石が行われた[7]。本格的な戦闘に発展させないための手段となっている面がある一方、挑発につながっている。
純然たる遊びとしては、川などの水面に向かって投げる水切りが挙げられる。水面で石が飛び跳ねる回数を競う。
前近代の日本では婚礼の夜に嫁を迎える家の戸や羽目板などに投石=石を打つ風習が京都などで見られたが、土地によっては水かけの場合もあった[8]。
戦国時代には、元亀3年(1573年)の甲斐武田氏の西上作戦に伴う三河徳川氏との三方ヶ原の戦いにおいて、武田方の武将小山田信茂が投石隊を率いたとする逸話が知られる。
『信長公記』や『三河物語』に拠れば、武田氏は「水役之者」と呼ばれる投石隊を率いたと記されているが、これは近世期の軍記物や近代の戦史史料において誤読され、信茂が投石隊を率いたとする俗説が成立したものと考えられている[9]。
『吾妻鏡』文永3年(1266年)4月21日条に、争いや狼藉につながるとして鎌倉幕府が禁止し、関東では件数が減ったが、京都の方では未だに行われていると記述される。
江戸時代の生類憐れみの令では貞享4年(1687年)4月30日、江戸城中門を警護する与力(水野元政)が、門上のスズメや鳩を投石で追い払ったところを下男に目撃・密告され、同心遠慮(謹慎処分)を受けている[10]。