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上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』では「斉」であるとしており、現在の山東省周辺にあたる地域を指していたと思われる。一方で、『書経』鄭玄注では「青州から海を渡った区域を斉から分割して営州とした」としており、山東半島から渤海を渡った遼東半島、すなわち現在の遼寧省にあたる地域のこととしている。
後漢末の遼東で軍閥の公孫氏が割拠すると、渤海を渡って山東半島の一部をも版図に収め、ここに営州刺史をおいた。しかし、後漢の派遣した将軍張遼によって営州は打ち破られた。陶元珍はこの時張遼に打ち破られたとする「柳毅」なる人物が営州刺史だったのではないかと推測している。
南北朝時代に、北魏が北燕を滅ぼすと、444年(太平真君5年)、北燕遺領に営州を設置、州治を龍城県とした。
隋代が成立すると当初は下部に1郡1県を設置した。607年(大業3年)、州制廃止に伴い営州は柳城郡と改称され、下部に1県を管轄した。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||
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区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 |
州 | 営州 | 郡 | 柳城郡 |
郡 | 建徳郡 | 県 | 柳城県 |
県 | 龍城県 |
唐代でも営州(柳城郡)は郡レベルの地方行政区分として存続し、北辺の防備の要所として都督府が設置され、719年(開元7年)には平盧節度使が置かれた。北方民族と接していたため軍事的な対立の場となり、契丹や奚に占領されては奪還を繰り返していたが、761年(上元2年)に奚に占領された後は奪還することができず、営州は現在の昌黎県周辺に後退した。しかし五代十国時代の後唐の同光年間に契丹に占領された。その後1142年(皇統2年)に金朝が占領すると、営州は廃止となりその管轄地域は平州に統合された。