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武帝 劉裕 | |
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宋 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 宋 |
在位期間 |
永初元年6月14日 - 永初3年5月21日 (420年7月10日 - 422年6月26日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 劉裕 |
字 | 徳輿 |
諡号 | 武皇帝 |
廟号 | 高祖 |
生年 |
興寧元年3月17日 (363年4月16日) |
没年 |
永初3年5月21日 (422年6月26日) |
父 | 劉翹 |
母 | 趙安宗 |
后妃 | 武敬皇后臧氏(追贈) |
陵墓 | 初寧陵 |
年号 | 永初 : 420年 - 422年 |
※幼名は寄奴 |
劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝宋の初代皇帝。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。東晋を簒奪した桓玄打倒を契機に地位を築き躍進、外には南燕や後秦を滅ぼし、内では五斗米道や譙縦の反乱を鎮圧し、また政敵の劉毅や司馬休之を打倒、東晋内の第一人者としての立場を確立し、恭帝より禅譲を受けた。土断などの経済政策で財政の再建も成し遂げている。一方で政敵の粛清の苛烈さや東晋二帝(安帝・恭帝)の暗殺、いちど奪還した長安と洛陽の即時失陥についての批判も受けている。
徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実際に住んでいたのは南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)である。宋書では漢の高祖劉邦の異母弟である楚元王劉交の二十一代の子孫と記されている。東晋の頃は家は代々中級の官吏として郡の太守や県令を歴任していた[1]。曾祖父の武原令・劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移った。
興寧元年3月壬寅(363年4月16日)、劉翹と趙安宗の長男として生まれた。父は下級役人(功曹)であった。生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから産熱で亡くなった。困窮した幼少時代であり、父は幼い劉裕のために乳母を雇う金にも事欠き、養育を放棄されかけたこともあった。見かねた生母の姉・趙氏が代わりに劉裕へ乳を与え、そこから寄奴という幼名がつけられた[2]。なお趙氏の息子である劉懐粛・劉懐慎兄弟は後に劉裕の配下の武将として働いている[3]。ただし、敵国で書かれた『魏書』島夷劉裕伝では、本名は「項裕」であり、先祖が誰かも分からず、成りすましで劉姓を勝手に名乗ったワラジ売りであるとしている。その証拠に劉氏系図に劉裕の名はないとまで書いている[4]。
父は後妻に蕭文寿を迎え、劉道憐・劉道規を儲けるも劉裕が幼い時に死去している。父の死によって劉裕はわずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てざるを得なかった。成長したのちには身長七尺六寸で立派な体格を持ち、大志を抱き、こまごまとした礼節にはこだわらなかった。ただし継母にはよく仕え、真面目な孝行息子(孝謹)として評判だったと『宋書』武帝紀上には書かれており、貧しいながらも真面目な生活をしていたようである[5]。しかし、『魏書』島夷劉裕伝では、バクチで財産を使い果たしてしまい、字もほとんど読めずに周囲から呆れられ、借金も返さずすさんだ生活をしていたとしている[6]。
劉裕が初めて仕官したのは冠軍将軍孫無終の司馬(副官)としてであった[7]。隆安3年(399年)、五斗米道の信者を中心に起こった孫恩の乱において、劉裕は北府軍の劉牢之に請われて配下の参府軍事となり、わずか数十人の部隊で孫恩軍の数千の部隊を破り、自らも長刀を振るって奮戦するなど多くの勝利を挙げた[8]。対孫恩戦で挙げた武功より、建武将軍への昇進を果たす。隆安5年(401年)に再び孫恩らが襲来、建康に攻撃を仕掛けるも叶わず撤退。これを徹底的に追撃して海辺に駆逐した[9]。こういう戦乱のとき、東晋軍の他の武将は軍律を守らずに民衆から略奪して大いにひんしゅくを買ったが、劉裕隊は軍規が厳正で民衆から歓迎されたという[10]。
元興元年(402年)、西府軍団を率いる桓玄が首都の救援の名目で建康を制圧した。この際、劉牢之は桓玄に寝返りを考える。劉裕と劉牢之の甥である何無忌はそれを懸命に諌めるも聞き入れられず、結果桓玄が司馬道子らを殺害して実権を握った。後悔した劉牢之は江北に逃れてともに再起を図ろうと劉裕を誘ったが、劉裕は「将軍は強卒十万を率いながらも投降し、全軍の支持を失ったではありませんか!」と述べて拒絶した[11]。劉牢之は孤立して最期には自殺し、劉牢之を失った北府軍団は解体され、劉裕も桓玄の支配に属する。
元興2年(403年)10月、桓玄が安帝司馬徳宗を廃して、国名を楚として自ら皇帝を称した(桓楚)。この際、桓玄は劉裕を高く評価し、酒宴を何度も開いて慇懃丁寧に応対し、贈与品も手厚くした。
元興3年(404年)2月、劉裕は何無忌・劉毅・諸葛長民らを同志として、桓玄打倒のため決起した。劉裕は京口にて桓玄のいとこである桓修を切り捨てると檄を飛ばし、建康に向かった。劉裕軍はわずかに1700名という寡兵であったが、桓玄の繰り出す兵はことごとく破られた。桓玄は舟で長江から江陵に逃走し、幽閉していた安帝を連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉毅・何無忌・劉道規の軍に蹴散らされて江陵も失い、5月には蜀で馮遷に殺された。劉裕は桓玄に追放されていた安帝を復位させた。
桓玄打倒、安帝復位の功績により、劉裕は鎮軍将軍・都督十六州諸軍事とされた。
劉裕が東晋国内で発言力を高めた一方、桓玄の残党らは北西の後秦に逃げ込んだ。西では成都で譙縦が謀反を起こし後蜀を打ち立て、北部では南燕や北魏が勢力を伸ばしていた。南では孫恩より五斗米道軍を引き継いだ盧循が地盤を築きつつあった。これら周辺勢力の討伐が劉裕に求められた。
元興3年(404年)3月、盧循が海伝いで番禺を破り、広州刺史の呉隠之をとらえ、実効支配をなした。ただし盧循が広州の地産品などを献上してきたため、政府は盧循の支配を追認、広州刺史としている。
義熙4年(408年)1月、揚州刺史・録尚書事につけられたが、同年9月、劉敬宣(劉牢之の子)が後蜀討伐に失敗。任命責任を負い、中軍将軍へ降格となる。
義熙5年(409年)2月、南燕軍が東晋との国境付近で大規模な略奪をなし、およそ千世帯が被害に遭った。劉裕は3月に南燕征伐を宣言。多くの者が反対したが、孟昶・臧熹・謝裕らの後押しを受け、敢行した[12]。7月には南燕首都の広固城を包囲したが、義熙6年(410年)2月の陥落までには半年以上の期間を要した。
同月、劉裕の不在を好機と見た盧循は広州より北上。建康との中間地点にあたる豫章にて何無忌を敗死させた。この事態を受け劉裕は南燕の鮮卑人三千余りを穴埋めにして殺害[13]、急遽南下し、4月に建康入りを果たした。5月、劉裕の制止を振り切り迎撃に出た劉毅が五斗米道軍に敗退。孟昶は「臣が五斗米道どもに付け入る隙を与えてしまった。この危機は臣の罪である」と、薬を仰ぎ自殺した。
劉裕が建康の守りをまともに整えられないうちに、盧循軍は建康に接近。そのまま上陸し攻め立てられれば敗北は必至であったが、盧循が敢えて上陸をせず様子見をする作戦をとったことから、最悪の事態は回避される。その間に劉裕は戦闘可能な兵力を石頭城に集結させ、休息及び装備の再分配をなし、周辺地域より集結してきた救援勢力と合わせて各地に兵力を配した。このとき命令違反をなす将兵は殺すなど、命令の徹底を尽くした。結果、建康防衛に成功。逃亡を開始する盧循軍に対し、追撃。義熙7年(411年)には盧循を討ち果たす。
義熙7年(411年)4月、荊州を任せていた劉道規が病を得、帰還を願い出た。その代任として劉毅が派遣される。ここで劉毅は、自らの派閥に属する謝混や郗僧施などの招聘を願い出る。劉裕はいったん承諾するそぶりを見せたが、間もなく謝混らを捕縛、殺害。義熙8年(412年)9月に劉毅討伐を表明、出陣した。この出兵は劉毅の虚を突いていた。先遣隊の王鎮悪が到着した時点で劉毅は病に臥せっており、迎撃の備えをしていなかった。10月に劉毅は討ち取られた。
劉裕は荊州に到着すると、さらに後蜀討伐の軍を起こす。ただし親征はせず、新進の将軍朱齢石に一任し、本人は建康に帰還した。朱齢石の任用は物議を醸したが、義熙9年(413年)7月、朱齢石は後蜀を攻め滅ぼした。
建康に帰還した劉裕はクーデター決起以来の同志である諸葛長民を誅殺した後、国内の体制を整えるため奔走。謝晦らの手筈により[15]土断を施行する。ただし徐・兗・青三州に住む晋陵郡に本籍のある者は例外とされた。
東晋の皇族司馬休之が劉毅滅亡後の荊州に赴任、任地にて声望を集めていた。劉裕は義熙11年(415年)1月、司馬休之らの子らの失態にかこつけて攻撃。4月に司馬休之は後秦に亡命、ここに国内の対立勢力を一掃した。
後秦では名君であった姚興が死に、子の姚泓が立った。しかしその即位によって兄弟同士の争いが起こるなど紛糾していた。この機を逃すまいと劉裕は北伐に打って出た。義熙12年(416年)8月に進軍を開始。前鋒の檀道済・王鎮悪が進む先の後秦勢力は次々と投降。10月には洛陽を陥落させる。洛陽は西晋時代の都であり、歴代皇帝の陵墓が存在している。この地の獲得により陵墓の修復がかなったことは、東晋にとり未曽有の功績である。そのため劉裕は宋公に任ぜられた。劉裕は更に進軍し、義熙13年(417年)8月には長安を陥落させ、後秦を滅ぼした。この功績から10月に宋王への進爵が諮問された。
11月、腹心である劉穆之が急死。この事態を受け劉裕は急遽帰途についた。次男の劉義真に長安の運営を任せ、その配下兵力を王鎮悪に取りまとめさせ、12月に長安を発つ。義熙14年(418年)1月に彭城入り。ここで改めて王への進爵辞退を表明した。6月には官位が相国に引き上げられ、九錫が与えられた。
一方長安では、王鎮悪が同僚の沈田子に殺害された。長安の情勢が一挙に悪化したため、10月、劉裕は劉義真の代任として朱齢石を派遣する。しかし夏の赫連勃勃が長安を強襲。劉義真は身一つで逃げねばならない有様となり、朱齢石をはじめとした多くの将軍が戦死。かつ、長安を失陥した。
こうして朝廷を掌握した劉裕は義熙14年12月(419年1月)、中書侍郎の王韶之に命じて安帝を暗殺[16]、その弟である司馬徳文を新たな皇帝(恭帝)として擁立する。そして宋王への進爵を受諾、さらには永初元年(420年)6月に恭帝の禅譲を受け、皇帝に即位した[17]。また帝位を退いた恭帝を零陵王に降封したが、翌年の永初2年(421年)9月にはこれを殺害した[18]。
永初3年5月癸亥(422年6月26日)、建康の西殿で崩御。長男である劉義符が即位した。徐羨之・傅亮・檀道済・謝晦らが後事を託された。
『後漢書』の作者の范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之、五胡十六国時代や南北朝時代を代表する詩人の陶淵明も劉裕に仕えていた[19]。また、『世説新語』の撰者の臨川康王劉義慶は劉裕の甥にあたる。
劉裕はその戦いにおいて「兵の虚実を操る」場面が多い。
慧皎『高僧伝』には、『宋書』からはうかがえない劉裕と仏教との濃密な関係が記されている。
劉裕は皇帝に即位するに当たり、自らの皇位の権威付けをなすための取り組みを行っている。
北斉の魏収が編纂した『魏書』島夷劉裕伝では、「或云本姓項,改為劉氏,然亦莫可尋也。」[159]、即ち「元の姓は項であり、後に劉姓に改めたと言われるが、この説がどこから出てきたのかは不明である」との記述が存在している。
劉裕の生家の家柄に関して、北魏側の資料である『魏書』島夷劉裕伝の記述では、劉裕は草鞋売りで生計を立てるほどの、非常に貧しい家庭の生まれであったと記されている[160]。『資治通鑑』では、宋書でなく魏書の記述が採用されている[161]。
日本の小説家の田中芳樹は、劉裕の型破りな英雄像を紹介するにあたり、劉裕と諸葛長民との会話を引いている。諸葛長民が「劉備と諸葛亮のように活躍しよう」と持ちかけたところ、劉裕は「自分はただの貧乏人の子だ」、と突き放した、というものである[162]。ただし、このエピソードの出典は不明である。
原文記載ページは中華書局本に、吉川本の記載は宝蔵館文庫版に準じる。
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