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青島 幸男 あおしま ゆきお | |
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生年月日 | 1932年7月17日 |
出生地 |
日本 東京府東京市日本橋区 (現:東京都中央区) |
没年月日 | 2006年12月20日(74歳没) |
死没地 | 日本 東京都江東区 |
出身校 |
早稲田大学第一商学部 早稲田大学大学院商学研究科(中退) |
所属政党 |
(無所属→) (第二院クラブ→) (無所属→) 第二院クラブ |
称号 |
正四位 旭日重光章 商学士(早稲田大学) |
第13代 東京都知事 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1995年4月23日 - 1999年4月22日 |
選挙区 |
(全国区→) 比例区(厳正拘束名簿式) |
当選回数 | 5回 |
在任期間 |
1968年7月8日 - 1989年 1992年 - 1995年3月23日 |
青島 幸男 (あおしま ゆきお) | |
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誕生 |
1932年7月17日 日本 東京府東京市(現:東京都) |
死没 |
2006年12月20日(74歳没) 日本 東京都江東区 |
職業 |
小説家 作詞家 タレント 放送作家 映画監督 政治家 歌手 |
国籍 | 日本 |
ジャンル |
小説 脚本 随筆 |
代表作 | 『人間万事塞翁が丙午』(1981年) |
主な受賞歴 |
カンヌ国際映画祭批評家週間入選(1966年) 直木三十五賞(1981年) 旭日重光章(2006年) |
デビュー作 | 『人間万事塞翁が丙午』(1981年) |
子供 | 3 |
ウィキポータル 文学 |
青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年〈昭和7年〉7月17日[1] - 2006年〈平成18年〉12月20日)は、日本の小説家、作詞家、タレント、テレビ司会者、俳優、放送作家、映画監督、政治家、歌手。
参議院議員(5期)、第二院クラブ代表(初代・第5代)、東京都知事(第13代)などを歴任した。
テレビ業界で当初は放送作家として成功し、高度成長期を歌った「スーダラ節」を作詞する。クレージーキャッツ主演の映画はもとより、『若大将シリーズ』などでも映画の主題歌を作詞した。主演したドラマ『いじわるばあさん』では国民的キャラクターとして定着し、小説を執筆すれば処女作『人間万事塞翁が丙午』が直木賞を受賞するなど、多才の人として知られ、「超マルチタレント」と呼ばれた。タレント政治家としても高い人気を誇り、参院選2期目以降は、選挙期間中に選挙公報作成と政見放送録画以外の選挙運動を一切せずに当選し続けたことなどが注目された[注 1]。
東京府東京市日本橋区堀留町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)の仕出し弁当店・弁菊を営む青島次郎・ハナ夫妻の次男として生まれる[2]。兄は謙治、祖父も謙二で代々弁菊を営んでいた[3]。「青島旅館」も営んでいた[4]。
東京都立第二十一中学校(現:東京都立武蔵丘高等学校)に入学するが学制改革に遭い、数か月で新制早稲田大学高等学院に転校[注 2]。
1951年早稲田大学第一商学部に進学[2]。22歳の時、兄の許婚者の美千代に恋をして苦しみ、ガス自殺を企てたこともあるが、部屋にガス管を引いてガスを呼吸するうちに「これなら本当に死ねる、いつでも死ねるから今夜はやめとこう」と外に飛び出した[5]。この頃、恋の苦しみから自分の髪の毛を切ったり、赤い長襦袢を着て電車に乗ったり、哲学書を読み漁ったりした[6]。やがて幸男の苦しみを見るに見かねた兄から許婚者を譲られ、3年後に結婚する[6]。
学部卒業間際に結核を患ったので就職を断念して、1955年4月に早稲田大学大学院商学研究科商学専攻修士課程に進学し、療養生活を送る。当時、昔の同級生から見舞いを受けた際に、就職先の自慢話を聞かされ、恨めしい思いをしたことが後に「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という歌を作る動機になった[7]。療養中に銀座でバー「カランタス」を経営。その頃に書いた漫才台本がNHKのコンクールで採用されたことをきっかけに放送作家としての活動を開始。1956年[2]6月には大学院を中退する。
結核回復後は働かずに実家で過ごしていたが、1961年、東京都立第二十一中学校の同期だった[8]すぎやまこういちから電話で呼び出され、渡辺プロダクション社長である渡辺晋を紹介される。
渡辺プロダクション制作の『おとなの漫画』(フジテレビ)、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)などの構成を担当し、放送作家本人が画面に登場する「青島だァ!」のギャグで一躍有名になる。「青島だァ!」は青島の代名詞で歌手デビュー曲のタイトルにも使う程で、青島自らの作詞で発売された。1960年当時「最初に運転免許を取って美容師の免許を取って、映画も撮って、作詞作曲、監督、主演を全部やり、直木賞を取り、国会議員になる」と豪語し、植木等から正気を疑われたが、8年後までにこれらの大半を実現させた(直木賞の受賞は21年後)[9]。
作詞家としても才能を発揮し、番組で関わったハナ肇とクレージーキャッツや坂本九らの作詞をする。特に作曲家萩原哲晶とのコンビでの作品で数多くのヒットがある。代表曲として「スーダラ節」「だまって俺について来い」「明日があるさ」などがある。
1966年には映画『鐘』で製作・脚本・監督・主演を担当し、同作はカンヌ国際映画祭の国際批評家週間に入選した。
俳優としても、自身の当たり役となったテレビドラマ『意地悪ばあさん』(原作:長谷川町子、レギュラー放映:読売テレビ/1967年 - 1969年、フジテレビ/1981年 - 1982年)に主人公・意地悪ばあさん(波多野たつ)役で主演し、読売テレビ版の主題歌「意地悪ばあさんのうた」も歌った。
あまり知られていない仕事として、ドラマのストーリーテラー(いわゆる狂言回し)がある。1969年から1970年にかけて円谷プロダクションが製作した大人向けの特撮ドラマ『恐怖劇場アンバランス』では、ストーリーテラーとして全13回すべてに出演。同作品は、内容が陰惨なために製作後3年間お蔵入りした後、1973年にようやく放映されることになったもので、各話冒頭と終わりに挿入される青島の出演部分は、放映決定後に追加で撮影された(そのため青島の名がエンドクレジットに無い)。アメリカの怪奇ドラマ『ミステリー・ゾーン』に倣いストーリーテラーが案内してドラマが始まるという趣向を狙い、『ミステリー・ゾーン』のロッド・サーリングに相当する人物として青島が抜擢された。ただしコメントはプロデューサー熊谷健の執筆によるものである。
1968年、第8回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し2位で初当選[10]。なお、1位は石原慎太郎、3位は上田哲であり、タレント政治家のパイオニア的存在となる。
テレビ司会者としても、1968年から11年間に渡る『お昼のワイドショー』、高見知佳との名コンビで広く親しまれた『追跡』などの司会者などとして引き続き芸能界でも活躍した。
後に無所属議員による院内会派第二院クラブに所属。「参議院議員は内閣に関与すべきではない」との立場から、首班指名は必ず棄権していた。
ある日、佐藤栄作が「自分は参院選の応援のために日本全国を回った」と話すので「自分はテレビでの知名度があって当選できた。選挙の立候補者も放送を通じて政見を述べればよい」と答え、青島の提案によりテレビでの政見放送が実施された。
1971年3月29日、予算委員会の代表質問において、与党自由民主党に対する財界からの政治献金の多さを批判する。首相の佐藤栄作を「もし理想的な政治資金規正法がつくられまして、これが厳密に運用されたら、自民党政府の存立はあり得ないでしょう。そのことはだれも知っておりますし、一番よく御存じなのは、佐藤さん、あなた御自身だと私は思います。だから、これは政治資金規正法の改正というのは私はできないと思います、あなたには。できもしないことを、やるのだやるのだとお約束になるから、ますます国民の不信を買うばかりであると私は信じます。(中略)資本主義国家なんですから、企業からお金を集めてそれを政治資金にするというのは、私は明らかにすればそれでいいと思うのです。できないならできないと明確におっしゃったほうが、一そうはっきりするのです。その代わり、政府はスポンサード・ガバメントであり、総理は財界のちょうちん持ちで男メカケである」と一刀両断し、大いに物議を醸した(永六輔は、後年にこの発言を「あれは一種の媚び。ああいう媚び方というのがある。芸者がお座敷で権力者の禿頭を叩くのと同じで、あんなこと言われても総理は痛くも痒くもない。かえって喜んでる」と批判した)。
自民党は懲罰動議を出し、また同党の要求で、太字の箇所は国会会議録より削除されたが、青島の懲罰委員会決議は見送られた。青島によると、懲罰を決議するためには本会議で弁明の機会を与える必要があり、この弁明は時間無制限であったためではないかとしている[11]。
1974年の第10回参議院議員通常選挙以降、候補者の青島自らが街頭演説などの選挙運動を一切しないという独自の選挙活動を行う。これは青島が超有名人気タレントであるからこそ可能な戦法であった。
1981年、小説『人間万事塞翁が丙午』で同年上半期の直木賞を受賞。この作品は本人が直木賞を取ると周囲に公言して執筆・出版し、実際に受賞したものである。しかも当時の日本の文学史でも他に類を見ない離れ業であり、青島の豊かな才能の一端を示すエピソードとして知られている。
1989年、韓国大統領の盧泰愚宛に「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」という署名を133名の国会議員と連名で提出し、日本人拉致実行犯辛光洙ら29名の無罪放免を訴えた。
同年、4期目途中で消費税法案の強行採決に抗議して議員を辞職し、直後に予定されていた第15回参議院議員通常選挙に立候補するものの落選した。この行動は、中途辞職による比例代表名簿次点登載者であったいずみたくの繰り上げ当選と、自身の当選によって所属会派の議席増をもたらすため、「比例代表制度を恣意的に利用するものである」と批判された。
1991年に悪性リンパ腫が発見され、『追跡』など当時の全てのレギュラー番組を降板して治療に専念した。後に寛解するも、この時の抗癌剤治療が死因である骨髄異形成症候群の遠因となったとされる。
1992年の第16回参議院議員通常選挙で国会議員に返り咲き、金丸信が絡む東京佐川急便事件について、東京地方検察庁が金丸を罰金のみの略式起訴で幕引きを図った際には、抗議のハンガーストライキを国会議事堂前で行った。
1995年、参議院議員を辞職し、4月9日の第13回統一地方選挙にて行われる東京都知事選挙に無所属で出馬することを表明する。当初は、内閣官房副長官として7人の内閣総理大臣を補佐し、自民・自由連合・社会・公明4党からの推薦、新党さきがけからの支持を受けていた石原信雄の当選が有力視され、5選不出馬により勇退する鈴木俊一も事実上、石原を後継に考えていた。しかし青島は、開発が進む臨海副都心地区で開催が予定されていた鈴木肝煎りの世界都市博覧会の中止を公約に掲げ、石原や大前研一、岩國哲人、上田哲ら有力候補を破り、170万0933票を獲得して圧勝する[12][13][14][15]。石原の落選は、「国民の政党に対する不信感の表れ」のまさしく象徴的な出来事であった。
青島の知事就任後、東京都議会は臨海副都心開発を見直した上、都市博の開催を求める決議を賛成多数で可決する。しかし、青島は「中止補償は金で購いがつく。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と反対し、公約通り中止を決定した。
その世界都市博中止問題の議論をしていた最中の同年5月16日午後7時頃、都庁舎の都知事秘書室で青島宛の小包が爆発する事件が起こり、この小包を開梱していた職員が左手の全ての指と右手親指を失う重傷を負った(東京都庁小包爆弾事件)。後にこの事件はオウム真理教による犯行と断定されている。オウム真理教の宗教法人の所轄庁が東京都であり、宗教法人法による解散請求問題が浮上していたため、都知事の青島が狙われた。
都知事としての青島は、都市博中止以外には特に目立った施策はなく、2信組救済の税金投入をしないなど、他の公約を守ることもないまま官僚・役人任せの行政に終始する。このため、徐々に青島に対する批判は高まった[16]。もっとも、オール野党であったために独自色を出すことができなかったという見方もある[注 3]。
1期務めた1999年、任期満了で都知事の職を退任した。この時、2期目に立候補をするかどうか直前まで決めておらず、態度表明の記者会見の直前でも都政担当記者はおろか、ナンバー2である副知事でさえも退任するかどうかを知らなかった。
「ポスト青島」をめぐる1999年東京都知事選挙では、民主党を離党し、衆議院議員を辞職して出馬した鳩山邦夫を後継指名したが、石原慎太郎が当選し、鳩山は次点に終わった。都知事在任中は知事公舎に入居しており、退任後は江東区に転居した。
2001年、第二院クラブ代表に復帰。第19回参議院議員通常選挙に比例区から出馬するも落選。同年12月には、M-1グランプリで審査員を務めた。
2004年の第20回参議院議員通常選挙に東京都選挙区(定数4)から無所属で出馬する。ポスターには「選挙にも行かないでがたがた抜かすんじゃねぇこの野郎!!青島だぁ文句あるか!?」の極めて挑発的なフレーズを掲げ、自らがかつて作詞した「どんと節」の選挙版替え歌(セルフパロディ)を陽気に3回も熱唱し、歌の合間に政見を少し話すという極めて異色な政見放送を行う。596,272票を獲得したが、次点で落選した。青島はこの年の参議院選挙での落選を最後に、事実上政界を引退することとなった。
2006年12月20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため順天堂大学医学部附属順天堂東京江東高齢者医療センターで死去、74歳だった[17]。自宅で転倒して入院、退院はすぐだと思っていたが病院から勧められた輸血を断り、入院から1か月後の死だった[17][18]。叙正四位、旭日重光章受章。墓所は荒川区浄光寺。戒名は廉正院端風聚幸大居士。天皇(当時)から、一般の香典にあたる祭祀料を下賜される。都の職員100人以上がボランティアとして通夜・葬儀を手伝った。葬儀には盟友である植木等も参列したが、植木もこの時すでに肺気腫によって体調を崩しており、酸素ボンベを付けなければならない状態だった。植木にとっても、これが公の場で見せた最後の姿となる。なお、植木は青島の後を追うように、青島の告別式からちょうど3カ月後の2007年3月27日に死去している。
高度経済成長期に「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」と作詞して「ニッポン無責任時代」を演出した立役者でもあるが、青島自身にサラリーマン経験は無い。また、「うちのお父さんはサラリーマンですが、ちっとも気楽じゃありません。あんな歌はやめてください」という苦情の手紙を受け取ったことがある。青島は「卒業、就職の時期に結核を患い、やむなく大学院に籍を置いて、療養生活を余儀なくされ、身の保証の何一つないヤクザな稼業に追いやられた私としては、『サラリーマンがナンボのもんじゃい』とうらみがましく思っていた」と語っている[19]。
1990年代の青島はアメヤ横丁で購入したモッズコートを頻繁に着用しており、それに目を付けたテレビ局関係者がモッズコートを後述の『踊る大捜査線』の主人公の衣装とし、主人公・青島俊作の名前の由来ともなった[20]。
長女は放送作家・エッセイスト・タレントの青島美幸、長男は作詞家・放送作家の青島利幸[23]。
ほか
公職 | ||
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先代 鈴木俊一 |
東京都知事 公選第13代:1995年 - 1999年 |
次代 石原慎太郎 |
党職 | ||
先代 創設 佐藤道夫 |
第二院クラブ代表 初代:1983年 - 1995年 第5代:2001年 - 2006年 |
次代 コロムビア・トップ 辺見廣明 |