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船山 基紀 | |
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生誕 | 1951年1月13日(73歳) |
出身地 | 日本・東京都目黒区 |
ジャンル |
J-POP ニューミュージック 歌謡曲 ユーロビート アニメソング |
職業 |
作曲家 編曲家 キーボーディスト 音楽プロデューサー |
活動期間 | 1974年 - |
公式サイト | 作編曲家 船山基紀オフィシャルウェブサイト |
船山 基紀(ふなやま もとき、1951年1月13日[1] - )は、日本の作曲家、編曲家、キーボーディスト、音楽プロデューサー。東京都目黒区出身[2] 。
東京都目黒区に生まれる[2]。幼少期を調布市仙川で過ごし、当時開設されたばかりの桐朋学園の幼稚園に1期生として通う[3]。幼い頃から譜面と地図が大好きで[4][注釈 1]、中野区に引っ越した後中野区立谷戸小学校[注釈 2]では音楽部鼓笛隊に所属し大太鼓を担当[5]。
中学時代に吹奏楽部で出会ったサックスに夢中になった後[3]、早稲田大学高等学院から早稲田大学政治経済学部経済学科へ進む[2]。大学時代はビッグバンドの「ハイソサエティ・オーケストラ」に所属しサックス奏者(コンサートマスター[2])として活動する[4]。また、音楽の素質を認めていた大学の先輩の紹介で3年の時からアルバイトでヤマハ音楽振興会でヤマハポピュラーソングコンテストの仕事をして編曲の基礎を学ぶ[2]。その後、大学は中退するが[2]、1974年からフリーの作・編曲家として活動を開始[2][4]。編曲家としてのデビュー作は中島みゆき「アザミ嬢のララバイ」[6]。
1977年、沢田研二「勝手にしやがれ」が、第19回日本レコード大賞を受賞[2][4]。渡辺真知子、野口五郎などを手掛けた後、作曲家・筒美京平と出会い彼の作品の編曲に携わり始める[3]。
1981年から2年間はロサンゼルスに活動拠点を移し[4]、そこで出会ったフェアライトを帰国後に導入[2][4]。コンピューターを使った新しいスタイルで、柏原芳恵[7]、C-C-B、中山美穂、小泉今日子、松本伊代、Winkや森川由加里等、1980年代に活躍したアイドルやミュージシャンの楽曲を数多く手がける[2][4]。特に筒美京平作品の編曲数は最も多く、数々の賞を受賞している。
1990年代以降は、アニメソングやCMソング、ジャニーズタレント[8]、ミュージカルなどの舞台音楽制作を手がけている。
2014年には増崎孝司とユニットを組み、『Moto&Masu』名義でCDもリリースしている。
2019年時点で編曲した曲は2700曲を超え、歴代編曲家シングル総売上は小室哲哉に次ぐ2位[8]。
2020年、47年間のキャリアで手掛けた歌謡曲、アイドルソング、ニューミュージックなどの楽曲が収録された作品集のCD BOX「船山基紀 サウンド・ストーリー 時代のイントロダクション」を発売[3]。
2021年4月17日・18日、『〜筒美京平 オフィシャル・トリビュート・プロジェクト〜 ザ・ヒット・ソング・メーカー 筒美京平の世界 in コンサート』が東京国際フォーラムにて開催された。全編、筒美が手掛けたヒットナンバーで構成され、29組の歌手・アーティストが出演して歌い上げた。この日のために日本を代表する実力派ミュージシャンによって結成されたバンド「船山基紀とザ・ヒット・ソング・メーカーズ」が演奏を担い、指揮と音楽監督を船山が務めた[9][10]。
小学校時代はラジオを聞くのが大好きで、毎日FEN[注釈 3] を聴いていた。当時はイタリアのポピュラー音楽の祭典「サンレモ音楽祭」の楽曲やザ・ビートルズの曲などを好んで聞いていた[3]。
ヤマハ音楽振興会のバイトに誘われたのは、当時ヤマハがポピュラーソングコンテストに乗り出した頃で、譜面だけの応募作やギター一本で録音された音源のアレンジや譜面を書く人の人材が不足していたため[3]。そこでバイトを始めると、後に音楽業界で活躍する編曲家・萩田光雄や作曲家・林哲司などに出会い、彼らとの刺激的な日々の中アレンジ作業に面白味を感じて2年間バイトに没頭した[3]。
船山によると1969年から70年代前半の大学は学生運動で講義がなく、レポート提出だけで単位を取れる状態だったが、朝から晩まで部室でサックスを吹くほど音楽にのめり込んでレポート提出を怠った[3]。このため4年時にヤマハから正社員として就職を勧められるも、勉強を疎かにしていたことで卒業が絶望的となり、大学中退後に高卒の条件でヤマハに就職した。当時音楽業界の景気が良く仕事が沢山あったことから、2年後の1974年に編曲家として独立[3]。
「アザミ嬢のララバイ」で編曲家として初ヒットした後、若くて勢いのあるアレンジャーを探すプロデューサーから指名を受けて沢田研二の新曲「勝手にしやがれ」の編曲を任された。同曲で日本レコード大賞を受賞した船山は、「編曲家として帝国劇場のステージに立てたことは感動的な思い出」と後年語っている[3]。
それ以降編曲の依頼が増えたことから、「夕方から打ち合わせをして夜中に譜面を書き翌日の昼からレコーディング」という作業を繰り返す日々がしばらく続いた。また、依頼ごとにヒットを願う歌手の所属先のスタッフから発破をかけられ、疲労と重圧を感じながらも音楽作りを追求し心身ともに摩耗していった。その結果「このままではアイデアが枯渇してしまう」と危機感を覚えた船山は、1981年に仕事を一旦整理しロサンゼルスに旅立った[注釈 4]。
現地の音楽関係者と交流した船山はこれまでの疲れが癒やされ、枯れかけていた自分が蘇るような感覚になり音楽制作の意欲を取り戻した[3]。またこの渡米で、発売されたばかりのシンセサイザー「フェアライトCMI」と出会えたことが大きな収穫となった。船山によると当時の価格で1,500万円もしたが、画期的な機材で新たな音楽が作れることを確信し購入した。帰国後このシンセサイザーを用いて80年代に多くの楽曲を編曲した船山は、後に「自分の編曲がその時代の音になったと思う」と自負している[3]。
船山基紀
MOTO & MASU - 船山基紀と増崎孝司によるユニット