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河野 広中 こうの ひろなか | |
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生年月日 |
1849年8月24日 (嘉永2年7月7日) |
出生地 |
日本・陸奥国田村郡三春 (現:福島県田村郡三春町) |
没年月日 | 1923年12月29日(74歳没) |
所属政党 |
(自由党→) (同志倶楽部→) (憲政党→) (憲政本党→) (無名倶楽部→) (猷興会→) (立憲国民党→) (立憲同志会→) 憲政会 |
称号 |
正四位 勲一等旭日大綬章 |
第26代 農商務大臣 | |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1915年1月7日 - 1916年10月9日 |
第11代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1903年12月5日 - 1903年12月11日 |
天皇 | 明治天皇 |
選挙区 |
(福島県第3区→) (福島県郡部→) 福島県第5区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1890年7月1日 - 1923年12月29日 |
河野 広中(こうの ひろなか、1849年8月24日(嘉永2年7月7日) - 1923年(大正12年)12月29日[1])は、日本の武士(三春藩士)、政治家。第11代衆議院議長。磐州と号した。福島県庁前に「河野磐州翁」の銅像が立っている。
嘉永2年7月7日(1849年8月24日)、陸奥国三春藩郷士・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる。河野家は100石を給せられる他、呉服商・酒造業・魚問屋などを手広く営んでいた。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになった。
戊辰戦争にあたっては、三春藩は当初、奥羽越列藩同盟に加担していたが、尊皇を奉じる河野らはこれに反対。兄・河野広胖らと共に明治政府への帰順を思案し、美正貫一郎の仲介を経て東山道総督府軍先鋒の参謀であった板垣退助に決死の覚悟で会見した。三春藩の帰順が認められ、晴れて土佐藩・迅衝隊に合流し、二本松藩攻略と会津戦争に参加する事が出来た。
明治維新後は、地元で若松県権少属、戸長、区長などを歴任した。明治6年(1873年)2月には磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)副戸長に任命されるが、この頃ジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み、自由民権運動に開眼する。10月には戸長になり、河野は地元で全国に率先して民会を興し、区内の民政について審議せしめた。
明治8年(1875年)に石川(のちの福島県石川町)の区長に転じた河野は地方官会議を傍聴するために上京。国会開設の建白をしたが政府の容れるところではなかった。郷里に戻り、任地である福島県石川町で石陽社を設立し、東北地方の自由民権運動のさきがけとなった。明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議した。帰郷後、三春に三師社を結成(明治11年)し、同時に福島県で民会規則の起草、県会開会の準備にあたるとともに、学塾正道館を創設(明治14年)して多くの自由民権活動家を育てた[2]。
明治11年(1878年)、福島県庁に辞表を提出し、東北地方での民権運動に力を注ぐことになる。明治12年(1879年)、大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加。明治13年(1880年)4月の第4回愛国社大会では国会開設を政府に訴えることを決議し、片岡健吉とともに、全国から集まった8万7,000名余りの署名を代表して太政官と元老院に国会開設の請願を提出したが、却下される。明治14年(1881年)10月、自由党結成に参加。自由党幹部として、中央政界の傍ら福島県会議員、県会議長として県議会においても指導的立場にあった。
しかし、明治15年(1882年)に福島県令・三島通庸の圧政に対して福島事件がおきる。河野は、同志の田母野秀顕らと藩閥専制政府に対抗する連判状を取り交わしていたため、内乱陰謀の容疑で12月に検挙され、明治16年(1883年)に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告された。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦[3]によって出獄を許された。牢から出た河野は、後藤象二郎の自由民権派を糾合する大同団結運動に参加し、大同倶楽部結成に参画する。
明治23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に出馬、初当選を飾る。以後、大正9年(1920年)の第14回衆議院議員総選挙まで連続当選した[1]。河野は当初、自由党に所属し、東北派の領袖として党内に一大勢力を築いた。第四議会では、院内総理として自由党を指導し、予算をめぐり、第2次伊藤博文内閣と対立した。しかし、次第に伊藤内閣とは協調路線をとるようになり党内で星亨や竹内綱ら土佐派と対立するようになっていった。その結果、明治30年(1897年)自由党を脱党した。
明治31年(1898年)6月、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見た。しかし、すぐに憲政党は分裂し河野は古巣の旧自由党系憲政党ではなく、大隈重信ら旧改進党系の憲政本党結成に参加した。その後も、藩閥政府を批判し普通選挙運動と対露強硬外交を主張した。
明治36年(1903年)、第11代衆議院議長に選ばれた[4]が、12月の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至った(奉答文事件)。明治38年(1905年)、ポーツマス条約に反対し、9月に日比谷公園で講和条約反対を目的に開かれた国民大会の議長として日比谷焼打事件を扇動する。のちに建築家、新宿末廣亭席亭となる当時14歳の北村銀太郎は、四谷で暴徒を扇動する姿を目撃している。
河野広中が昼間、馬に乗って来ちゃ、扇動するわけなんだよ。「来たれ、来たれ、集まっていっせいに卑屈醜辱なる講和条約に対する不満の声を九重(ここのえ)の天に上げよ。聖明かならず赤子の至情を諒としたまふであらう」ってね。馬のいななきの中からボンボン、彼の声が飛んで来る。すると、みんな、もっともだ、もっともだって・・・・・・。
(中略)
河野広中の扇動の仕方が、またやけに恰好いいんだよ。「血あるもの、涙あるもの、骨あるもの、鉄心あるもの、義を知るもの、恥を知るもの」って呼びかけて来る。これで人の心をつかんぢゃふ。(後略) — 北村銀太郎、[5]
事件ののち兇徒聚衆罪に問われたが、明治39年(1906年)に無罪判決が出された。
明治42年(1909年)には、アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加。このあとは、反立憲政友会陣営の雄として、衆議院小会派をいくつか渡り歩いた後、立憲国民党の結成に参加。次いで桂新党運動に参加・立憲同志会を結成。さらに憲政会に所属した。大正4年(1915年)第2次大隈重信内閣の農商務大臣に就任した。
大正12年(1923年)12月29日、肝臓癌のため[6]74歳にて死去。墓は東京都文京区大塚の護国寺にある。