梅谷光貞
梅谷 光貞 (うめたに みつさだ、1880年 〈明治 13年〉12月2日 - 1936年 〈昭和 11年〉9月27日 [ 1] )は、日本の内務 ・警察 官僚 。官選県知事 。
略歴
兵庫県 養父郡 畑村[ 1] (現・養父市 )で、梅谷伊平の長男として生まれる[ 2] 。第一高等学校 を卒業。1908年 、東京帝国大学 法科大学 法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験 に合格。1909年 1月、内務省 に入省し警視庁 警部 となる[ 3] [ 4] 。
1910年 (明治43年)11月、警視庁警視 に昇進。以後、岩手県警察部 長、栃木県警察部 長等、警察畑の要職を歴任した。1916年 6月、台湾総督府 に転出し[ 3] 、警視・民政部 警察本署 保安課長に就任[ 1] 。その後、警察官及司獄官練習所長事務取扱、台北庁長、総督府事務官 、兼参事官 、新竹州 知事などを歴任。
1923年 (大正12年)2月、山梨県 知事として帰国。1920年 (大正11年)7月には朝香宮 が南アルプス 登山 を行うと、山梨県内では山岳会結成の機運が高まり、1924年 (大正13年)6月11日には甲斐山岳会(後の山梨県登山連盟・山梨県山岳連盟)が発足した[ 5] 。梅谷は同会の総裁となり、会長に若尾金造、副会長に石塚末吉が就任した[ 5] 。富士北麓などの開発、山系の縦走路の改修などを行い、観光山梨の基礎を築いた[ 2] 。
1924年(大正13年)6月、長野県 知事に就任。在任中に川井訓導事件 が発生。
さらに自らの失政から警廃事件 を招き、1926年 (大正15年)7月18日 には、知事公館 に押し寄せた群衆から暴行を受けた[ 6] 。同年8月、依願免本官となり退官した[ 3] 。
免官後は、海外移民組合連合会専務理事としてブラジル 移民事業を指導した[ 1] 。満州事変 後、陸軍省 嘱託として関東軍 特務部に勤務し、満州移民計画の立案にあたった[ 7] 。
脚注
^ a b c d 「故梅谷光貞位階追陞ノ件」
^ a b 『山梨百科事典』増補改訂版、106-107頁。
^ a b c 『新編日本の歴代知事』525頁。
^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』191頁。
^ a b 『山梨県史 資料編19』1322頁。
^ 「長野県は無警察状態に」『大阪毎日新聞』1926年7月19日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.520 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 『財界二千五百人集 満蒙及朝鮮篇』356-357頁
参考文献
歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
秦郁彦 編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会 、2001年。
『山梨百科事典』増補改訂版、山梨日日新聞社 、1989年。
山梨県編『山梨県史 資料編19 近現代6 教育・文化』山梨日日新聞社、2002年。
『財界二千五百人集 満蒙及朝鮮篇』財界二千五百人集編纂部、1934年。
「故梅谷光貞位階追陞ノ件 」 アジア歴史資料センター Ref.A11114409600
五州三庁時代
服部仁蔵 1920.9.1-1921.10.8
常吉徳寿 1921.10.8-1922.5.15
梅谷光貞 1922.5.15-1923.10.25
佐藤勧 1923.11.3-1924.12.23
古木章光 1924.12.25-1927.4.22
永山止米郎 1927.4.22-1929.4.20
田端幸三郎 1929.4.20-1931.5.8
野口敏治 1931.5.8-1931.9.12
猪股松之助 1931.9.12-1932.3.15
内海忠司 1932.3.15-1935.9.2
増田秀吉 1935.9.2-1936.10.16
赤堀鉄吉 1936.10.16-1939.1.28
林田正治 1939.1.28-1939.7.24
一番ヶ瀬佳雄 1939.7.24-1940.5.25
宮木広大 1940.5.25-1942.7.3
鈴木秀夫 1942.7.13-1943.3.29
藤村寛太 1943.3.29-1943.8.7
江藤昌之 1943.8.7-1945.10.25
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菊池末太郎 1901.11.11-1903.9.16
佐藤友熊 1903.9.16-1907.9.12
加藤尚志 1908.9.12-1909.10.25
井村大吉 1909.10.25-1914.7.1
加福豊次 1914.7.1-1917.9.26
冨島元治 1917.9.26-1919.5.21
今川淵 1919.5.21-1920.5.21
梅谷光貞 1920.5.21-1920.10.1
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