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基礎情報 | ||||
四股名 | 朝潮 太郎 | |||
本名 | 長岡 末弘 | |||
愛称 |
大ちゃん 角界の江川クン[1] | |||
生年月日 | 1955年12月9日 | |||
没年月日 | 2023年11月2日(67歳没) | |||
出身 |
日本・高知県安芸郡佐喜浜町 (現:室戸市) | |||
身長 | 183cm | |||
体重 | 183kg | |||
BMI | 54.64 | |||
所属部屋 | 高砂部屋 | |||
得意技 | 突き、押し | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東大関 | |||
生涯戦歴 | 564勝382敗33休(67場所) | |||
幕内戦歴 | 531勝371敗33休(63場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝1回 幕下優勝1回 | |||
賞 |
殊勲賞10回 敢闘賞3回 技能賞1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1978年3月場所(幕下付出) | |||
入幕 | 1978年11月場所 | |||
引退 | 1989年3月場所 | |||
引退後 |
若松部屋→高砂部屋師匠 日本相撲協会理事(4期) 2000年2月 - 2008年1月 | |||
備考 | ||||
金星5個(北の湖4個、輪島1個) | ||||
2013年4月11日現在 |
朝潮 太郎(あさしお たろう、1955年〈昭和30年〉12月9日 - 2023年〈令和5年〉11月2日[2])は、高知県安芸郡佐喜浜町(現:室戸市)出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は長岡 末弘(ながおか すえひろ)、現役時代の体格は身長183cm、体重183kg。得意手は突き、押し。星座は射手座、血液型はB型。近畿大学商経学部卒業[3]。1990年から2002年まで若松部屋、2002年から2020年まで高砂部屋の師匠を務めた。
近畿大学3年生の1976年から翌1977年にかけて2年連続で学生横綱とアマチュア横綱の2つを同年度に獲得する活躍を果たし[注釈 1]、1977年12月7日、高砂部屋を訪問し、入門する意思を伝えた[4]。1978年(昭和53年)3月場所幕下付出(60枚目格)に本名「長岡」で初土俵。同年7月場所新十両、11月場所新入幕。1979年(昭和54年)3月場所「朝汐太郎」と改名。1982年(昭和57年)11月場所「朝潮」に改名。1983年(昭和58年)3月場所後大関昇進。1989年3月場所引退[5]。
小学校時代は常に成績が学年トップであり、太っていて苦手であった体育の評定が「2」であった以外はほとんどが「5」であった[6]。一方で小学校卒業時には体重が80㎏を超える巨漢であった[7]。当時の佐喜浜町は人口3000人の小さな町で、「勉強するなら大きな町で」と、高知市立愛宕中学校に越境入学した[8]。12歳にして下宿生活を送り、中学時に体重は100キロを超えたという[7]。体が大きいことで無理矢理に相撲部に誘われたのが、相撲を始めるきっかけとなった[7]。中学2年生次に相撲部監督から勝手に登録され出場した高知県大会で2位[6]。高知県立高知小津高等学校に非公式に誘われ進み、高校はアパートでの1人暮らしをしながら通った。小津高相撲部は県新人戦ベスト8が最高成績で決して強豪ではないが、気楽に過ごした[9]。高校3年で国体出場、高校選抜ハワイ遠征で補欠に入る。進学先の近畿大学の相撲部へは強かった選手のおまけで勧誘された[7]。
近畿大学で2年連続して学生横綱・アマチュア横綱のタイトルを獲得[10]。最終タイトル8冠というその好成績から幕下付出が認められ、1978年3月「今度はプロの横綱を目指します」と高砂部屋に入門。後に本人が語るところによると、5代高砂は長岡の両親に対しては「息子さんをくれ」の一言しか言わなかったそうであるが、両親は「離島(徳之島)出身の朴訥なもの言いが、私ら高知の田舎者には合うのではないか」と評していた[11][12]。高砂部屋の他にも時津風部屋、出羽海部屋からも勧誘を受けていたとのこと[13]。他にも、春日野部屋、二子山部屋などからも勧誘があり、合計10部屋による争奪戦となっていた[6]。
初土俵から所要2場所で十両昇進。十両昇進までは富士櫻の付け人についた[14]。昇進の際に兄弟子の高見山から彼のタニマチである丸八真綿の布団を贈られた[1]。関取になると高見山・富士櫻とともに「高砂三羽烏」などと称された[15]。初土俵から5場所目で入幕[10]。入幕2場所目で大関・貴ノ花を破り[5][注釈 2]、初の敢闘賞を獲得。この場所で初土俵から初めての幕内2ケタ勝利までの最速タイ記録を果たした格好となった(年6場所制度下、所要6場所)[16][注釈 3][5]。最速タイ記録に当初は本名で取ることを希望していたが先代朝潮太郎だった師匠から高砂部屋では最高の四股名である「朝汐太郎」を受け、襲名する[10]。4代目[注釈 4]の朝汐誕生である。しかし早くもプロの壁にぶつかり、翌1979年3月場所、上位陣との連日の対戦で初日から8連敗を喫する大不振に陥り、やっと手にした白星は、9日目の大関・旭國休場による不戦勝だった。結局この場所は5勝10敗に終わり、それから数場所も負け越しの連続で幕内下位に低迷し、影が薄い存在と化していた[5]。この頃、相撲に自信をなくし廃業してたこ焼き屋でもやろうか、と考えていたところを兄弟子の富士櫻に叱咤されてもいる。
その後、徐々に幕内上位に返り咲き、1980年(昭和55年)3月場所11日目、横綱・北の湖との2度目の対戦で、朝汐は北の湖が出たところを豪快な引き落としで破り初金星を挙げ、この場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得[5]。これを皮切りに朝汐は上位陣から恐れられることになる。以後朝汐は輪島、三重ノ海、若乃花、千代の富士といった横綱陣との対戦では度々土をつけ、特に当時の実力第一人者である北の湖との対戦では、仕切りから横綱の計算を狂わせ、ファンはおろか当の上位力士でさえも驚くばかりの強さを発揮し、当時の幕内力士では唯一北の湖に通算13勝7敗(不戦勝1含む)と歴然とした差で勝ち越したことで話題を呼んだ。1981年5月場所8日目の北の湖戦でも全勝の北の湖に土をつける活躍を見せ、この時のNHK大相撲中継の視聴率は夏場所のものとしては2017年3月場所終了時点で最高となる38.2%であった(ビデオリサーチ調べ)[17]。同年11月場所は12勝3敗の好成績で千代の富士と優勝決定戦に出場するが、敗れて初優勝を逃した[5]。翌1982年1月場所は大関挑戦の場所であったが、6勝9敗と負け越し、失敗に終わった[5]。1982年5月場所は13勝2敗の好成績で再び千代の富士と優勝決定戦に出場し、敗れてまたしても優勝を逃した[5]。翌1982年7月場所は再度大関挑戦の場所であったが、8勝7敗に終わり、またしても失敗に終わった。このように素晴らしい成績を挙げながらも優勝・大関には手が届かず、3度あった優勝決定戦ではあと一歩のところで及ばず、勝敗の差が激しく連勝か連敗が目立ついわゆる「連(ツラ)相撲」も特徴であった。この頃は大関挑戦の場所を迎えては負け越し(あるいは最小の勝ち越し)て失敗、数場所後に大勝ちして再(々)度大関挑戦の繰り返しであった[5]。
特筆すべき点は、1983年1月場所である。この場所の朝潮は破竹の勢いに乗り、北の湖を掬い投げでひっくり返し、若乃花を土俵下に突き飛ばして引退に追い込み、千代の富士も押し出して横綱を総なめにし、琴風以外の大関も倒す大活躍を見せつけた[5]。結果は琴風との優勝決定戦となり敗北[注釈 5]が、大物同士がひしめき合ったこの場所で14勝1敗という優勝同然の成績を挙げた朝潮の活躍は、相撲内容も優勝した琴風以上のもので、横綱キラー朝潮の強さをまざまざと見せつけた場所であった。関脇以下の力士が横綱を3人倒すという快挙は当時では非常に稀で、歴史を辿っても過去に4人(初代若乃花:1953年1月場所、先代朝潮:1955年1月、富士櫻:1974年1月場所、栃赤城:1979年11月場所)しかいなかった。
翌3月場所、東関脇の地位で再び大関獲りとなったが3場所前の1982年11月場所が平幕(東前頭筆頭・9勝6敗)の地位だった為、先場所の同年1月と同様に終盤まで優勝争いに加わる好条件が求められた。同場所は7日目に出羽の花に敗れ1敗。その後終盤まで横綱千代の富士と優勝を争ったが、13日目千代の富士に敗れて2敗、14日目北天佑にも連敗し3敗に。そして千秋楽、「隆の里(当時大関)戦で敗れたら大関は見送り」との報道も流れる中、なんとか勝利して結果12勝3敗の成績を挙げ、ようやく遅咲きながら大関昇進を果たした[10][5]。都合6度の大関挑戦を経験し、高砂から思うように大関昇進を果たせないことを指して「朝潮という四股名をやったのは大失敗。黒潮にしておけばよかった」と嘆かれたこともあったがその末に昇進を果たし、まさに朝潮は最も脂の乗った時期に差し掛かった[18]。
大関在位3場所目の1983年9月場所は、7日目まで6勝1敗と好調だった。しかし8日目の横綱・隆の里戦で上手捻りで敗れた際、「右膝内側側副靱帯損傷」の大怪我を負い途中休場、翌11月場所は全休。通常ならば大関で2場所連続負け越しすれば関脇へ陥落となるが、同1983年5月場所から公傷制度が大関にも適用される(その後2003年11月場所限りで公傷制度は廃止)事が決まっており、朝潮の11月場所の全休は公傷が認められたため、運良く陥落は免れた。また、大関の地位で公傷制度が適用されたのも、朝潮が第1号である。初の大関角番となった1984年(昭和59年)1月場所は、10勝5敗と勝ち越して角番を脱した。
大関でも連相撲ぶりが目立っていたが、1984年頃より従来の突き押し主体から、左四つ右上手で寄る相撲に変わっていき取り口的にも安定するようになった。1985年(昭和60年)3月場所では、6日目から連勝を重ねて勢いに乗り、千秋楽で大関若嶋津との相星決戦を制し、13勝2敗でようやく悲願の幕内優勝を果たした[10]。その若嶋津戦では、当たって右上手を十分に引いた朝潮が、正面からグイグイ寄り進み、上手投げから186㎏の体重を預けるように寄り倒す会心の取り口で若嶋津を破った。この時期には、相手に当たった衝撃で額から血を流すことがしばしば見受けられ、流血も顔を二分化するかのような凄まじいものであった。本人は「白星欲しさに」だというが後に「あんなことしても痛いだけなんですけどね」と苦笑しながらコメントしている[5]。その優勝した場所でも、流血して勝ちを取ったかのような勢いがあり、この頃の朝潮は横綱も正面から打ち負かすほどの、最強の強さを発揮していた。朝潮はこの場所限りで現役引退を表明した富士櫻を最後の餞にと優勝パレードの旗手に指名している[19]。旗手は通常なら幕内力士が務めるが、引退時の富士櫻は十両であったため、十両力士が幕内優勝パレードの旗手を務めるのは異例であった。なお、朝潮の幕内優勝はこの1985年3月場所が唯一である[5]。
しかし優勝場所以後、10勝以上を挙げたのはわずか2度で、14日目か千秋楽に勝ち越しを懸ける場所が多くなっていった。大関時代の後半の成績も8勝や9勝がほとんどで、「クンロク大関」と皮肉られた[5]。それでもライバルとして横綱では隆の里や千代の富士(但し千代の富士の関脇昇進後は差が開いた)、大関では琴風、若嶋津、北天佑などがいた。
現役末期は押し相撲には必須の出足が鈍り、引きや叩きに対して脆く、前に落ちやすくなっていた。そしてそれが顕著に現れたのが、当時は突き押しのみが得意だった100kgを僅かに上回る程度の幕内最軽量級の若手力士寺尾との取組で、寺尾にがっぷり四つに組まれ電車道の相撲を取られる失態を犯した。これはある意味朝潮の致命的な弱点で、受けに回るとあっけなく寄り切られるという巨漢力士に似合わぬものであった。
1989年(平成元年)3月場所は大関角番では無かったものの、初日から4連敗を喫し体力の限界を理由に、4日目の寺尾戦を最後に現役引退を表明。なお当初、朝潮自身は「5日目の孝乃富士戦を現役最後の一番にしたい」と申し出たものの、相撲協会からは「死に体で土俵に上がる事は許されない」と認められず、5日目の孝乃富士戦は結局不戦敗となった。また、大関在位数36場所は、当時貴ノ花(初代)の50場所に次ぐ史上2位だった(現在史上8位)。
成績は大関止まりであったが、当時の横綱大関陣の優勝、番付昇進は朝潮の活躍が大きく作用している点も見逃せず、対戦力士にとって優勝や昇進においてベンチマーク的存在となっていた。北の湖は前述の通り、朝潮に再三敗れたために、連勝を何度も止められている上、千代の富士にも幾度も優勝を譲っている。1981年(昭和56年)1月場所では関脇・千代の富士は全勝で千秋楽を迎えた。北の湖は朝汐に負けて13勝1敗、千秋楽の北の湖対千代の富士は北の湖が勝ったが決定戦で千代の富士が本割のお礼とばかりに横綱を這わせ初優勝、場所後大関に昇進した。同年7月場所で横綱昇進を決めたのも、全勝の北の湖が朝汐に突き倒されて、千秋楽に相星決戦となった伏線があり、これもまさしく朝潮の暗躍の結果である。
現役引退後の暫くは、年寄・山響を襲名して高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた。しかし、10代若松親方(関脇・房錦)が病気で廃業したことに伴い、1990年(平成2年)3月に11代若松を襲名して若松部屋を継承した[10]。山響親方、若松親方時代には、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』などのバラエティ番組にも積極的に出演し、独特のキャラクターで視聴者を笑わせていたが、これは「少しでも新弟子が集まるきっかけになれば」[20]と宣伝を兼ねての出演だった。
師匠である6代高砂(小結・富士錦)の停年が近づくと、当初後継者とみられていた高砂部屋付きの錦戸親方(関脇・水戸泉)が、諸事情により継げなくなってしまったため、2002年(平成14年)2月5日付で6代高砂と年寄名跡の交換を行い、7代高砂を襲名するとともに、若松部屋の力士全員が高砂部屋に移籍した。この間、幕内・朝乃若、朝乃翔、十両・朝乃涛などの関取を育てた[5]。
引退から日が浅かった頃は自ら胸を出して指導していた。指導者としては突き押しの指導を徹底し、弟子の朝乃山に関しては「朝乃山は正攻法で真っすぐ来ることを前提に相撲を取られる」としつつも「相手に読まれようとも小細工や駆け引きなどしない力士に育てたい」という育成方針を持っている[21]。若松部屋を継承して以降「現役時代に嫌だったことは、弟子にはしない」というポリシーを掲げており、自身が5代高砂から宴席に連れ回されたり稽古中に竹刀で殴られたりした経験を踏まえ、弟子を極力宴席へ連れ出すことはせず、弟子を殴ることもしていない[11][22]。2017年の夏合宿では力士達にのびのびしてほしいということで、自分は敢えて稽古場を離れて部屋付きに指導を任せるという一面を見せている[23]。
さらに、2000年(平成12年)2月から2008年(平成20年)1月まで、4期8年にわたり日本相撲協会理事の要職を務める一方、朝青龍を横綱に育て、素質や人気から期待されながら果たせなかった自らの横綱昇進の夢を、愛弟子が実現した。本場所開催中(偶数日付)は日刊スポーツの相撲担当評論家として、同誌に解説「大ちゃん 大分析」を連載している(奇数日付は納谷幸喜=元横綱大鵬の「土評」)。2010年(平成22年)1月場所まで、役員待遇委員の職位で審判部副部長を務めていた。
しかしながら、横綱昇進後も絶えることの無い朝青龍の問題児ぶりは、朝青龍本人の責任もさることながら、自身の管理能力の低さに起因するとの指摘があり、ノンフィクション作家の塩澤実信もTVでコメントを求められた際にその点を指摘している[5]。2008年(平成20年)7月に、弁明も兼ねた自著『親方はつらいよ』(文春新書)にて、思いのたけを明かしている。なお、巻末には朝青龍のお詫び文が掲載された。さらに、結果的に事実上の解雇とも言うべき引退につながった2010年初頭の暴行事件を巡っては、改めて指導者としての資質が問われた。弟子の力士生命に関わる問題に師匠としての毅然とした態度を示せず、弁明に終始し、対応の不手際が批判されるようになった。この事から同年2月、朝青龍が暴行事件の影響で引退した事に関連して監督責任を問われ、役員待遇から主任へ2階級降格処分になることが決定された。朝青龍の暴行事件の際はすでに朝青龍を擁護するつもりはなかったが、断髪式では親方として丁重に見送っている[24]。2011年(平成23年)1月31日に委員に復帰し、監察委員を経て、2013年2月に役員待遇委員へ再昇格、生活指導部副部長に就任した。2014年(平成26年)7月場所には貴乃花が検査入院のため場所を全休したことを受けて監察委員長を代行した[25]。
13代東関が死去して東関部屋が八角部屋の一時預かりとなった際、芝田山広報部長は「八角部屋が一門の長」と説明し、事実上一門の名前を冠する自身が総帥ではないことが示された[26]。
2020年3月場所前、高砂部屋の師匠として最後となる大阪場所激励会が2019新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止になった[27]。
停年前の最後の本場所である11月場所を控えた11月4日、オンライン記者会見で「いい師匠人生。個性を発揮できる力士になってほしい」と朝乃山ら弟子の成長を願った。現役時代の一番の思い出には、1985年3月場所に果たした唯一の優勝を挙げた。2010年には朝青龍が暴行問題の引責で引退するなど不祥事の対応に追われたこともあったが「問題を起こす横綱もいた。落ち着いてきたら朝乃山がタケノコのように伸びてきた。いろんな意味でついている人生」と振り返り[28]、朝青龍に関しては「あれだけのことをやった。かばうにもかばいきれない。自業自得。本人にそう言っておいて」と切り捨てた[29]。
停年を間近に控えた2020年11月26日、日本相撲協会の理事会で、元関脇・朝赤龍が襲名していた錦島と名跡の交換が承認され、18代錦島として高砂部屋の部屋付き親方となった[30]。元大関以上の再雇用制度利用は史上初[31]。この師匠交代の際に「高砂という重い看板を背負うことになるが、そんなプレッシャーを感じる必要はない。自分を、そして周りを信じてノビノビと指導にあたってほしい。これまで同様、協力は惜しまない」と話した[32]。参与(再雇用)は通例で「生活指導部(礼儀作法教育係)」を担当するが、直近まで役員待遇委員であった元大関であることを考慮されてか、相撲博物館の副館長を務めた[33][31]。
『文藝春秋』2021年1月号では師匠退任に際して「現役、指導者としての約40年を振り返ってみて、何か悔いがあるとすれば、やはり横綱になれなかったことです」と吐露した[1]。
再雇用任期中の2021年6月1日、18代錦島は日本相撲協会に退職届を提出し、同月10日付で受理され退職した[33]。
同年6月11日、日本相撲協会は新型コロナウイルス(COVID-19)対応のガイドラインに違反したとして、弟子である朝乃山に対する処分(6場所出場停止・50%の減給6ヶ月)の発表に併せ、18代錦島に懲戒処分を行わず退職とした経緯について発表した[33]。18代錦島のガイドライン違反は相撲協会コンプライアンス委員会(青沼隆之委員長=元名古屋高検検事長)が朝乃山の調査をしていく過程で判明し、同委員会の聴取を受けたときに本人は認めたという[34][35][36]。これを受けて同委員会は5月25日までに同伴した付け人の聴取を行い、以下の事実が認定されたという。
度重なる違反行為について、同委員会は「指導者としての資質が欠けている。無自覚な振る舞いが弟子らの意識を麻痺させ朝乃山の不行状を生んだ」と断罪した。また部屋の師匠を8代高砂(朝赤龍)に禅譲した後も高砂部屋の建物に住み続け、この影響で8代高砂が部屋への通い親方の形となったことも「監督不行き届きとなった原因」と批判している[38]。同委員会は「報酬減額の懲戒処分とすることが相当」と判断し、補足として「停年再雇用後の参与という立場を鑑み、退職願を受理することも検討すべき」と処分意見を答申していた[39]。
本人はルール違反が指摘されると「俺がやめて丸く収まるなら」と、ためらいなく退職届に筆を走らせたという[40][注釈 6]。同月4日には8代高砂と同委員会に呼ばれ、部屋施設の家主を早急に8代高砂に変更することを確認している。
この退職の顛末に関しては、豪放磊落で行き当たりばったりな性格が災いしたと評された[40]。
7月場所まで務めていた日刊スポーツの評論は、9月場所より花田虎上が引き継いだ[41]。
死去する前年末に100万人に6人の確率で発症するとされる希少がんの一種である小腸がんを発症し、晩年はリハビリ生活を送っていた。ただし病気については親しい人物以外は知らさなかったという[42]。2023年に入ると体調が悪化し、病床に伏して動けない状態が続き、家族には余命宣告もされていた[43]。また、定年間際の時期には足の状態が悪く、車椅子生活を余儀なくされていた。
2023年11月2日、小腸がんのため、東京都墨田区の自宅で死去した[44]。67歳没。訃報は翌3日、一部メディアの日本相撲協会関係者への取材により明らかになり[2]、翌4日に妻の長岡恵がメディアの取材に応じ、死因を公表した[45]。
2024年2月5日、都内のホテルでお別れの会が開催された。協会の八角理事長(元横綱・北勝海)や、弟子の朝乃山ら約350人が参列し、角界外部からは石毛宏典や赤井英和などが参列。弟子の元朝青龍も来賓扱いではないが姿を見せた[46][47][48]。
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1978年 (昭和53年) |
x | 幕下付出60枚目 優勝 7–0 |
西幕下6枚目 6–1 |
西十両13枚目 10–5 |
東十両5枚目 10–5 |
西前頭13枚目 9–6 |
1979年 (昭和54年) |
東前頭6枚目 10–5 敢 |
東前頭筆頭 5–10 |
東前頭6枚目 6–9 |
東前頭10枚目 6–9 |
東前頭14枚目 10–5 敢 |
西前頭6枚目 7–8 |
1980年 (昭和55年) |
東前頭7枚目 8–7 |
西前頭2枚目 10–5 殊★ |
東小結 10–5 殊 |
西関脇 11–4 殊 |
東関脇 6–9 |
西前頭2枚目 7–8 |
1981年 (昭和56年) |
東前頭3枚目 8–7 ★★ |
東前頭筆頭 8–7 |
西小結 9–6 殊 |
東張出関脇 11–4 殊 |
西関脇 7–8 |
西張出小結 12–3[注釈 7] 殊 |
1982年 (昭和57年) |
西関脇 6–9 |
西前頭筆頭 8–7 ★ |
西小結 13–2[注釈 7] 殊敢 |
西関脇 8–7 殊 |
西張出関脇 7–8 |
東前頭筆頭 9–6 ★ |
1983年 (昭和58年) |
西関脇 14–1[注釈 8] 殊技 |
東関脇 12–3 殊 |
東張出大関 9–6 |
東張出大関2 9–6 |
西張出大関 6–3–6[注釈 9] |
西張出大関 休場[注釈 10] 0–0–15 |
1984年 (昭和59年) |
西張出大関 10–5[注釈 11] |
東張出大関 9–6 |
西張出大関 10–5 |
西大関 8–7 |
東張出大関 11–4 |
西大関 10–5 |
1985年 (昭和60年) |
西大関 9–6 |
東張出大関 13–2 |
東大関 11–4 |
東大関 9–6 |
東張出大関 9–6 |
東張出大関 9–6 |
1986年 (昭和61年) |
西張出大関 9–6 |
東張出大関 10–5 |
西大関 9–6 |
東張出大関 9–6 |
東張出大関 9–6 |
西大関 8–7 |
1987年 (昭和62年) |
西張出大関 9–6 |
西張出大関 9–6 |
東張出大関 8–7 |
東張出大関 9–6 |
東張出大関 8–7 |
東張出大関 8–7 |
1988年 (昭和63年) |
西張出大関 9–6 |
西張出大関 8–7 |
西張出大関 1–2–12[注釈 12] |
西張出大関 8–7[注釈 11] |
西張出大関 9–6 |
西大関 4–11 |
1989年 (平成元年) |
西張出大関 8–7[注釈 11] |
東張出大関 引退 0–5–0 |
x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
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青葉城 | 8 | 3 | 青葉山 | 0 | 1 | 安芸乃島(安芸ノ島) | 1 | 2 | 旭國 | 1(1) | 0 |
旭富士 | 5 | 22 | 天ノ山 | 6 | 3 | 荒勢 | 8 | 1 | 板井 | 10 | 1 |
岩波(照の山) | 3 | 0 | 恵那櫻 | 1 | 1 | 大潮 | 6 | 1 | 巨砲 | 25 | 11(1) |
大錦 | 4 | 2 | 大豊 | 2 | 1 | 魁輝 | 4 | 4 | 魁傑 | 1 | 0 |
北瀬海 | 1 | 0 | 北の湖 | 13(1) | 7 | 騏ノ嵐 | 1 | 1 | 霧島 | 6 | 0 |
起利錦 | 2 | 0 | 麒麟児 | 20 | 9 | 蔵間 | 17 | 3 | 黒瀬川 | 8 | 4 |
黒姫山 | 2 | 3 | 高望山 | 8 | 1 | 琴稲妻 | 0 | 1 | 琴ヶ梅 | 5 | 10 |
琴風 | 10 | 16* | 琴千歳 | 0 | 1 | 琴富士 | 1 | 0 | 琴若 | 4 | 1 |
斉須 | 2 | 0 | 蔵玉錦 | 5 | 4 | 逆鉾 | 18 | 11(1) | 佐田の海 | 17 | 3 |
薩洲洋 | 1 | 0 | 嗣子鵬 | 3 | 1 | 陣岳 | 10 | 2 | 大旺 | 1 | 0 |
大觥 | 1 | 0 | 太寿山 | 20 | 3 | 大徹 | 5 | 0 | 隆の里 | 14 | 12 |
貴ノ花 | 4(1) | 5 | 孝乃富士 | 3 | 2(1) | 隆三杉 | 3 | 0 | 多賀竜 | 8 | 0 |
谷嵐 | 1 | 1 | 玉輝山 | 0 | 1 | 玉ノ富士 | 0 | 2 | 玉龍 | 4 | 1 |
千代の富士 | 15 | 31** | 寺尾 | 7 | 4 | 出羽の花 | 28 | 12 | 闘竜 | 8 | 5 |
栃赤城 | 6 | 3 | 栃司 | 10 | 2 | 栃剣 | 2 | 2 | 栃乃和歌 | 3 | 5 |
栃光 | 5 | 7 | 花乃湖 | 6 | 6 | 花ノ国 | 2 | 1 | 播竜山 | 2(1) | 0 |
飛騨乃花 | 4 | 0 | 藤ノ川 | 2 | 1 | 双津竜 | 1 | 1 | 双羽黒 | 4 | 12 |
鳳凰 | 9 | 5 | 北天佑 | 25(1) | 16 | 北勝海 | 11 | 15 | 前乃臻 | 1 | 0 |
増位山 | 5 | 7 | 舛田山 | 8 | 8 | 益荒雄 | 2 | 3 | 三重ノ海 | 1 | 3 |
三杉磯(東洋) | 3 | 2 | 三杉里 | 1 | 0 | 豊山 | 2 | 3 | 両国 | 6 | 3 |
若嶋津 | 13 | 20 | 若瀬川 | 4 | 0 | 若乃花(若三杉) | 6 | 9 | 若の富士 | 3 | 0 |
輪島 | 2 | 6 | 鷲羽山 | 5 | 1 |
(カッコ内は勝敗数の中に占める不戦勝・不戦敗の数)
隆の里とは通算で2勝勝ち越しのほぼ互角の成績で、勝ったと思ったら、翌場所は負けるといった勝敗の繰り返しが目立ち、因縁めいた対決が見物であった。北天佑は朝潮が引退するまで、同じ大関として名勝負を繰り広げていた。
但し、苦手力士も多々存在した。琴風とは優勝を争ったこともあり、成績では負け越したものの、時々豪快に勝つこともありファンを湧かせ、苦手というよりはむしろライバル的な顔合わせであった。だが、「昭和の大横綱」千代の富士が大関昇進して以降は、殆ど勝てなくなった。また、後から出てきて横綱昇進を果たした北勝海・大乃国には2人が大関時代辺りから力関係が逆転され、さらに双羽黒・近畿大学の後輩旭富士の2人には共に大きく引き離されてしまい、双羽黒には初顔で敗れてから分が悪く、旭富士にはその柔らかさを苦手にした。この4人全員揃って年齢差や体格の違いからも勝つことが難しかったようだ。他にも下位力士に不覚を取ることが日常茶飯事で、元関脇・琴ヶ梅には5勝10敗、元関脇・栃乃和歌には3勝5敗と負け越すなど、成績も安定感に欠ける面があり、優勝も1回だけで2桁勝利は意外と少なかった。
対千代の富士戦の幕内15勝は勝ち越した隆の里に次いで多い。
場所 | 朝潮 | 決まり手 | 北湖 | 勝敗 | 解説 |
---|---|---|---|---|---|
昭和54年3月 | ● | 寄り切り | ○ | 0–1 | 初対決は先輩の意地を見せた北の湖が先制。北の湖「オレに勝つのはまだ3年早い」。朝汐はこの場所初日から8連敗で初の負け越し。 |
昭和55年3月 | ○ | 引き落とし | ● | 1–1 | 立合いから突っ張り合いとなり、朝汐が突進する北の湖の僅かな隙を突いて土俵際で右に回って叩き込む。横綱戦に初勝利した朝汐は初の殊勲賞受賞。 |
昭和55年5月 | ○ | 押し出し | ● | 2–1 | 北の湖まさかの連敗で「どうした北の湖」とファンを心配させた一番。同じ相手に対しての連敗癖も露呈。 |
昭和55年7月 | ● | 寄り切り | ○ | 2–2 | 北の湖、朝汐に土俵際まで攻め込まれたが、凄まじい形相で反撃し辛勝。この場所の北の湖は全勝優勝を飾る充実振り、朝汐も北の湖には勝てなかったものの他の上位陣に勝ったことから3場所連続殊勲賞を受賞。 |
昭和55年9月 | ● | 寄り切り | ○ | 2–3 | 再び圧倒的な強さで北の湖が朝汐に勝ち越す。これを最後に以後北の湖が朝汐に勝ち越すことはなかった。 |
昭和56年1月 | ○ | 突き落とし | ● | 3–3 | 朝汐が引き技で北の湖の連勝に待ったを掛ける。この後北の湖は14勝1敗で千代の富士との優勝決定戦に臨み敗れている。 |
昭和56年5月 | ○ | 引き落とし | ● | 4–3 | またも朝汐の引きに北の湖が不覚。北の湖は14勝1敗で優勝したものの、この頃から朝汐を苦手とするようになる。朝汐は当時現役力士で唯一北の湖に勝ち越し。 |
昭和56年7月 | ○ | 突き倒し | ● | 5–3 | 北の湖が初日から13連勝で14日目に組まれた一番。立合い北の湖は反射的に苦手意識を露呈、突っ張り合いの末に朝汐に突かれ、尻餅をついて土俵下まで転落。 |
昭和56年9月 | ○ | 寄り切り | ● | 6–3 | 朝汐はこの場所負け越しながらも、14日目北の湖に勝利。この一番により北の湖と優勝を争っていた琴風が初優勝となったが、翌日千秋楽で朝汐はその琴風にも土をつけている。 |
昭和56年11月 | □ | 不戦 | ■ | 7–3 | それまで皆勤だった北の湖が初休場し朝汐が不戦勝。この場所の朝汐は12勝3敗で優勝同点。 |
昭和57年1月 | ● | 寄り倒し | ○ | 7–4 | 北の湖が朝汐を堂々と寄り倒し久々に雪辱を果たす。北の湖はそのまま千秋楽まで連勝を重ね、13勝2敗で優勝。 |
昭和57年3月 | ○ | 押し出し | ● | 8–4 | また朝汐が先場所以来続いていた北の湖の連勝にストップをかける。 |
昭和57年5月 | ○ | 押し出し | ● | 9–4 | 北の湖あっけない負け方、曰く「なぜか知らないけど、あららという間に負けちゃう」。朝汐は13勝2敗で優勝同点と優勝争いでも健闘。 |
昭和57年9月 | ● | 寄り切り | ○ | 9–5 | 横綱らしい堂々たる取り口で北の湖が快勝。この頃から両者の対戦は新聞のスポーツ欄のトップを飾るようになる。 |
昭和57年11月 | ○ | 押し出し | ● | 10–5 | 北の湖が初日からいきなり敗れる。 |
昭和58年1月 | ○ | 掬い投げ | ● | 11–5 | 立合いから北の湖が優勢で思い切って朝潮を追い込んだが、土俵際で逆転され、受けに回ると朝潮に攻め込まれた。 |
昭和59年1月 | ○ | 寄り切り | ● | 12–5 | 1年ぶりの対戦だったが朝潮が圧勝。朝潮はこの場所千代の富士と隆の里の二横綱も破って「横綱キラー」の異名をとる。 |
昭和59年3月 | ○ | 寄り切り | ● | 13–5 | 北の湖にとっては幕内通算1000回出場という記念すべき日だったが、またも朝潮に敗れて、曰く、「どうしてオレの時だけ強いんだ」。朝潮はこの場所も三横綱を総なめ。 |
昭和59年5月 | ● | 寄り切り | ○ | 13–6 | 朝潮が優勢で北の湖を追い込んだが、土俵際で体が入れ替わり、北の湖がそのまま寄り切る。北の湖はこの場所最後の全勝優勝。 |
昭和59年7月 | ● | 寄り切り | ○ | 13–7 | 北の湖、万全の相撲で朝潮に連勝。北の湖にとっては15日間出場した場所で最後の白星となった一番。 |
現役時には最強の名をほしいままにした横綱・北の湖が何故朝潮を苦手としていたのか? これには様々な説があるが、集約してみると次の通りである。
北の湖本人も「何故そうなったのか分らない」と言うほど、朝潮の攻めは計算出来ないものだったらしい[73]が、全体的に見ると、上記の要因がそれぞれ複雑に作用して結果に現れたと推察される。朝潮の取り口の工夫などもあり、「苦手意識」「考えすぎ」といわれるようなマイナスの心的要因が働いて、北の湖が出足を鈍らされたことはほぼ間違いないと言っていいだろう。このような心理が起因して予想外の結果を生むことは、他のスポーツ界でも見られるものである。
北の湖は6度に渡って朝潮に初日からの連勝を止められている。そのうち3度は朝潮からの黒星のみの14勝1敗、3度は優勝同点または優勝次点に終わっており、そのいずれも千秋楽の対千代の富士戦に敗れ、千代の富士に優勝をさらわれる結果となっている。
場所 | 対戦日 | 北の湖の成績 | 備考 |
---|---|---|---|
昭和55年3月 | 11日目 | 13勝2敗 優勝 | |
昭和55年5月 | 9日目 | 14勝1敗 優勝 | |
昭和56年1月 | 10日目 | 14勝1敗 優勝同点 | 本割では14戦全勝の関脇千代の富士を破ったが、優勝決定戦で敗北。 |
昭和56年5月 | 8日目 | 14勝1敗 優勝 | 前場所からの連勝が15でストップ |
昭和56年7月 | 14日目 | 13勝2敗 優勝次点 | 前場所からの連勝が20でストップ。1敗同士の相星決戦で大関千代の富士に敗北。 |
昭和57年3月 | 7日目 | 11勝4敗 優勝次点 | 前場所からの連勝が16でストップ。2敗の横綱千代の富士に敗北(勝利すれば決定戦だった)。 |