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放駒部屋(はなれごまべや)は、日本相撲協会所属で二所ノ関一門相撲部屋。ここでは前身の松ヶ根部屋(1990年~2014年)、二所ノ関部屋(2014年~2021年)についても説明する。

歴史

松ヶ根部屋

1987年(昭和62年)7月場所に現役を引退し、以降は二子山部屋の部屋付き親方となっていた年寄・9代松ヶ根(元大関若嶋津)が、1990年(平成2年)2月18日に内弟子2人を連れて二子山部屋から分家独立する形で松ヶ根部屋を創設し、千葉県船橋市に拠点を置いた。

1999年3月場所に新十両へ昇進した若孜を最初として、一時期は4人の関取を擁していたが、2006年11月場所に春ノ山が引退した後からは関取不在の状態が続いた。その後、2010年5月場所において松谷(現・松鳳山)が新十両へ昇進し、松鳳山は2013年1月場所に部屋初の三役力士となった。

2013年1月28日には閉鎖された二所ノ関部屋から10代二所ノ関(元関脇・金剛)ら年寄3人・行司1人・床山1人を受け入れた。2014年11月24日には片男波部屋から18代放駒(元関脇・玉乃島)と11代二所ノ関(元幕内・玉力道)が移籍して部屋付き親方となった[1]

二所ノ関部屋

2014年12月1日、9代松ヶ根と11代二所ノ関が名跡交換を行い、同日付で部屋名は二所ノ関部屋に改められた[2]。「二所ノ関部屋」は二所ノ関一門を代表する部屋の名前であり、2013年1月に旧二所ノ関部屋が閉鎖されて以降、一門内では二所ノ関部屋の復活を望む意見があったことが、この部屋名改称につながった[3]。部屋名変更に伴い、松ヶ根部屋に所属していた12代二所ノ関を含む年寄5人と松鳳山ら所属力士12人・行司2人・呼出2人・床山2人はそのまま二所ノ関部屋の所属となった。部屋の施設も引き続き松ヶ根部屋のものを使用した。

放駒部屋

2021年(令和3年)12月24日、12代二所ノ関の停年(定年)退職を翌月に控えて、部屋付きの18代放駒が二所ノ関部屋を継承した[4]。これに伴い部屋名は同日付で放駒部屋に改められ[4]、旧二所ノ関部屋の関係者は片男波部屋に転属した床山1人を除き全員が放駒部屋の所属になった[4]。なお、12代二所ノ関は同日付で荒磯部屋師匠の16代荒磯(元横綱・稀勢の里)と名跡を交換したため、17代荒磯として放駒部屋の部屋付き親方となり、荒磯部屋が新・二所ノ関部屋として活動することとなった[4]。放駒部屋発足直後は千葉県船橋市の旧二所ノ関部屋を拠点としたが[5]東京都足立区への移転計画が立てられ同地で新築工事が進められた[6]

2022年4月9日に東京都足立区六町に新築された新しい部屋で土俵祭りを行い、後援会関係者らを招いて部屋開きを行った[5]

所在地

師匠

松ヶ根部屋時代
二所ノ関部屋時代
  • 12代:二所ノ関六男(にしょのせき むつお、大関・若嶋津、鹿児島)
放駒部屋時代
  • 18代:放駒 新(はなれごま あらた、関脇・玉乃島福島

部屋付き親方

力士

現役の関取経験力士

幕内

小結
前頭

十両

旧・放駒部屋

沿革

力士は土俵あってこその命。休場は試合放棄と同じ」の名言で知られ、クリーン大関として絶大な人気を誇った花籠部屋二所ノ関一門)の元大関魁傑は、1979年(昭和54年)1月場所限りで引退して17代放駒を襲名、花籠部屋の部屋付き親方に就任していた[8][9]

1981年(昭和56年)2月1日付で、大ノ国(のち第62代横綱)ら数名の内弟子を連れて花籠部屋から分家独立して放駒部屋を創設、花籠部屋、二子山部屋と共に阿佐ヶ谷勢の一翼を担った[10]

1985年(昭和60年)7月場所後に一番弟子の大乃国大関に昇進する。

この1985年(昭和60年)12月、12代花籠(元横綱・輪島)が自身の年寄名跡を借金の担保にしていた問題の責任を取って廃業した。花籠部屋出身で二所ノ関一門の総帥であった二子山(横綱・初代若乃花)に指名されて、閉鎖された花籠部屋の弟子全員を引き取ることになり、放駒部屋は小部屋から一気に大部屋へと躍進した[10][11]

1987年(昭和62年)5月場所で大関・大乃国が全勝優勝して放駒部屋初の優勝を成し遂げる。この年9月場所後に大乃国は第62代横綱に昇進した。また小結花乃湖などの関取を輩出したものの、1990年代に入ってからは大乃国が引退して部屋の勢力が衰え、2001年(平成13年)1月場所において新十両へ昇進した駿傑が部屋最後の関取となった。

17代放駒は2010年(平成22年)8月に、大相撲野球賭博問題で揺れる中で、現役時代のクリーン大関と言われた高潔さと、長年執行部で発揮した事務処理能力の高さを認められ、第11代日本相撲協会理事長に就任した[12]2012年(平成24年)1月場所後に退任し、相談役に就任したが、「最悪の時代を乗り切った最大の功労者であると同時に最大の犠牲者」と言われ[13]、理事長在職1年5か月は最短だが、「存亡の危機に大相撲を救った希代の名理事長」と評価された[14]

2013年(平成25年)2月15日に17代放駒が停年を迎えることに伴い、同年2月7日付で放駒部屋は閉鎖され、所属力士や行司ら12人は弟子の大乃国が創設した芝田山部屋へ移籍した[15]。この中には、のちに十両に昇進した若乃島も含まれている。

師匠

  • 17代:放駒 輝門(はなれごま てるゆき、大関・魁傑山口)※第11代日本相撲協会理事長

力士

(※は1985年に花籠部屋から移籍)

横綱・大関

横綱

幕内

小結
前頭

十両

脚注

  1. ^ “放駒親方、二所ノ関親方が松ヶ根部屋に転籍”. 日刊スポーツ. (2014年11月25日). https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20141125-1400835.html 
  2. ^ 横綱大鵬ら生んだ二所ノ関部屋が復活」『日刊スポーツ』2021年12月1日。2021年12月19日閲覧。
  3. ^ 横綱大鵬ら輩出の二所ノ関部屋12月復活」『日刊スポーツ』2014年1月23日。2021年12月19日閲覧。
  4. ^ a b c d 【初場所新番付】元横綱稀勢の里・荒磯親方 二所ノ関襲名し二所ノ関部屋」『日刊スポーツ』2021年12月24日。2021年12月24日閲覧。
  5. ^ a b 大相撲 放駒部屋が足立区で部屋開き 先代・若嶋津から地域密着の姿勢受け継ぐ スポーツニッポン、2022年4月10日閲覧。
  6. ^ 9年ぶり復活「放駒部屋」引退後3年で80キロ減“新米師匠”元玉乃島の胸中」『日刊スポーツ』2022年1月13日。2022年1月13日閲覧。
  7. ^ 「令和4年度版 最新部屋別 全相撲人写真名鑑」『相撲』2022年5月号別冊付録、ベースボール・マガジン社、41頁。 
  8. ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ
  9. ^ 中日新聞社『土俵一途に 心に残る名力士たち』心に残る大関列伝・魁傑)
  10. ^ a b 杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」1991.11
  11. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p40
  12. ^ 武蔵川理事長辞任、後任に放駒理事…相撲協会 読売新聞 2010年8月12日閲覧
  13. ^ 日本経済新聞2014年5月19日「評伝 誠実・不屈貫いた苦労人」
  14. ^ 朝日新聞2014年5月19日「評伝 大相撲救った孤高の人」
  15. ^ 間垣部屋閉鎖、放駒部屋力士は芝田山部屋へ SANSPO.COM 2013年2月7日閲覧

外部リンク

座標: 北緯35度46分49.8秒 東経139度49分22.5秒 / 北緯35.780500度 東経139.822917度 / 35.780500; 139.822917