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中島信行 なかじま のぶゆき | |
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中島 信行 | |
生年月日 | 弘化3年8月15日(1846年10月5日) |
出生地 | 土佐国高岡郡塚地村(現・高知県土佐市塚地) |
没年月日 | 明治32年(1899年)3月27日 |
死没地 | 日本 神奈川県大磯 |
配偶者 |
中島初穂 中島俊子(湘煙) |
子女 | 中島久万吉 |
初代衆議院議長 | |
在任期間 | 1890年11月26日 - 1891年2月25日 |
天皇 | 明治天皇 |
選挙区 | 神奈川県第5区 |
中島 信行(なかじま のぶゆき、1846年10月5日〈弘化3年8月15日〉 - 1899年〈明治32年〉3月27日[1])は、日本の政治家。衆議院議員、初代衆議院議長。従三位・勲二等・男爵。通称は作太郎。
長男は中島久万吉。最初の妻は陸奥宗光の妹の中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。
土佐国高岡郡塚地村(現・高知県土佐市塚地)の郷士・中島猪三の長男。少年期に耕余塾へ通う。武市半平太の土佐勤王党に加盟、のちに脱藩して長州藩の遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬の海援隊で活躍した。龍馬の死後は陸援隊に参加する。
維新後は新政府に出仕した[2]。1880年10月12日、13日に上野精養軒の敷地内で開かれた、日本初の野外耶蘇教大説教会(キリスト教野外大集会)で中島は、心を動かされキリスト教へ求道を始める。[3] さらに、同志社の創設者新島襄に出会い、「いくら政治上で自由とか民権だとか唱えても人間は罪の奴隷である限り、それは空しいことだ、聖書の中にも『真理はあなたたちを自由にする』[4] と書いてあるように、日本人を自由の民としたいなら、まずあなた自らキリストを信じて罪の問題を解決し自由独立の人とならなければならない」と忠告を受け、信仰を持つ決断をし、1886年に一番町教会で植村正久牧師より洗礼を受けて熱心なクリスチャンになった。[5]
外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。
保安条例によって横浜へ追放された後、第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補して当選[6]。第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任[7]。その後は1892年にイタリア駐箚特命全権公使[8]、1894年8月7日には貴族院議員に勅選され[9]、死去するまで在任した[10]。
1896年6月5日、維新の功により男爵を叙爵[11]。1899年、療養中の神奈川県大磯別邸にて死去。54歳没。墓所は大磯の大運寺にある。
会津戦争の折に若松城を攻め落そうと、土佐兵が城門の前に押し寄せると、其の所に大きな屋敷があった。しきりに鉄砲を撃ち込んでみたが人の居る様子がなく、土佐藩士の小隊長は撃ち方を止めさせて、屋敷内に入り長い廊下を通って奥座敷に行ってみると、婦人達が見事に自刃していた。その内の16、7歳の少女が未だ死に切れず悶え苦しんでおり、足音を聞いて起き返ったがこの時はもう目も眩んで見えなかったらしく、かすかな声で「敵か味方か」と聞いた。小隊長はわざと「味方だ」と言った所が、身をかき探って九曜の紋が付いた懐剣をさし出した。これは介錯を乞うているのだろうと思い、見るに見かねて涙を振って首を斬って外に出た。
この城門前の大きな屋敷は会津藩家老西郷頼母邸で、自刃していたのは頼母の一族であり、絶命できず苦しんでいた少女は短刀の家紋と年の頃からして頼母の長女、西郷細布子(たいこ 又は たえこ、享年16)と思われる。 この小隊長が中島信行であると広く伝えられており[12]、現在、会津若松の会津武家屋敷第二資料館に、西郷一族の集団自決の現場で中島信行が抜刀している場面が人形で再現された「自刃の間」が設けられている。
しかし略歴の通り、この時点ではそもそも会津戦争に従軍していなかった可能性もあり、疑問が残る。近年の高知県での郷土研究によると、中島は戊辰戦争に従軍したことも、会津に行ったこともないことが明らかになった。高知新聞社刊『土佐百年史話』で著者の平尾道雄は、土佐の中島信行の通称中島作太郎と中島茶太郎と誤って伝えられたのではないかと推測している。中島茶太郎は土佐藩討西軍名簿に本部付使役と記されている。[13]
また、『栖雲記私注』で堀田節夫は西郷頼母が薩摩藩の人物と二度言及しているところから、薩摩藩で中島信行に似ている氏名の人物として、川島信行を挙げている。川島信行は維新後に初代五所川原警察署長を務めた人物である。
議会 | ||
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先代 (創設) |
衆議院議長 初代:1890年11月26日 - 1891年2月25日 |
次代 星亨 |
党職 | ||
先代 (結党) |
自由党副総理 初代:1881年 - 1884年 |
次代 (解散) |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 中島(信行)家初代 1896年 - 1899年 |
次代 中島久万吉 |