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紋章 | 地図 |
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基本情報 | |
連邦州: | バイエルン州 |
行政管区: | オーバーフランケン行政管区 |
緯度経度: | 北緯49度56分53秒 東経11度34分42秒 / 北緯49.94806度 東経11.57833度座標: 北緯49度56分53秒 東経11度34分42秒 / 北緯49.94806度 東経11.57833度 |
標高: | 海抜 340 m |
面積: | 66.89 km2 |
人口: |
74,907人(2023年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 1,120 人/km2 |
郵便番号: | 95444, 95445, 95447, 95448 |
市外局番: | 0921, 09201, 09209 |
ナンバープレート: | BT |
自治体コード: |
09 4 62 000 |
行政庁舎の住所: | Luitpoldplatz 13 95444 Bayreuth |
ウェブサイト: | www.bayreuth.de |
首長: | トーマス・エーバースベルガー (Thomas Ebersberger) |
州内の位置 | |
地図 | |
バイロイト(標準ドイツ語: Bayreuth, ドイツ語発音: [ba‿iˈrɔ‿yt][2], 東フランケン方言: Baraid, バイエルン・オーストリア語: Bareid)は、バイエルン州オーバーフランケン行政管区の郡独立市。オーバーフランケン行政管区、オーバーフランケン郡市連合およびバイロイト郡の本部庁舎が存在している。グリューナー・ヒューゲル(緑の丘)地区の祝祭歌劇場で毎年開催されるバイロイト音楽祭(リヒャルト・ワーグナー音楽祭)で世界的に有名である。
バイロイトは、フィヒテル山地とフレンキシェ・シュヴァイツの間、マイン川源流の一つである赤マイン川沿いに位置する。
バイロイトの市域は39の市区から構成されている。
バイロイトは、1194年に "Baierrute" としてバンベルク司教オットー2世の文書中で初めて言及されている。語尾の "-rute" は "Rodung"(開墾地)を、"Baier-" はバイエルン地方からの移民を示していると推測されている。より早くから文献に言及されている集落も、現在のバイロイト市に含まれている。ゾイルビッツ地区(1035年の神聖ローマ皇帝コンラート2世の文書中、ザーリアー朝(ザリエル家)の王領 "Silewize" として言及)やザンクト・ヨハンニス地区(1149年に "Altentrebgast" として言及)がそれである。
バイロイトは初め(1199年)"villa"(村)と呼ばれていたが、1231年の文献で初めて "civitas"(都市)と記されている。これにより、1200年から1230年までの間にバイロイトは都市権を授かったと解釈されている。1248年までの領主はアンデクス=メラン伯であった。この一門の断絶後、1260年にホーエンツォレルン家(ツォレルン家)一門のニュルンベルク城伯がこの所領を継いだ。クルムバッハのプラッセンブルク城が首都であり、国の中心であった。バイロイトの発展はゆっくりとしたもので、しかもたびたび大災害に襲われたのだった。しかし、1361年には皇帝カール4世がフリードリヒ5世城伯に対してバイロイトとクルムバッハに貨幣鋳造権を与えている。1421年には、バイロイトが初めて地図に記載された。
1430年2月にフス派がバイロイトを手ひどく荒らし回り、市庁舎と教会は焼け落ちた。1440年から1457年、ヨハン錬金術伯の治世下、ホーエンツォレルン城が建設された。この城は何度も改築・増築が繰り返され、現在の旧宮殿の原型となった。宗教改革が始まった10年後の1528年には、フランケンの辺境伯領の領主達はルター派の信仰を受け容れていた。
1605年の大火災では251軒の家屋のうち137軒が焼失した。1620年にはペストが流行し、1621年に再び大火災にみまわれた。三十年戦争でもこの都市は深刻な打撃を被った。
この都市の歴史の転換点となったのは、1603年にブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの息子であるブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯クリスティアンによって、プラッセンブルクからバイロイトに遷都されたことである(領土もブランデンブルク=バイロイト辺境伯領と改名)。1655年、孫のクリスティアン・エルンスト(彼の名はギムナジウム・クリスティアン=エルネスティウムとして後世に伝えられている)は1683年にオスマン帝国に包囲されたウィーンの解放軍に加わった(第二次ウィーン包囲)。現在、新宮殿に建てられているマルクグラーフェンブルンネン(辺境伯の泉)は、オスマン軍に勝利したこの業績を記念して造られたものである。この時代、環状道路の外側に市壁が設けられ、宮殿付属教会が建設された。
クリスティアン・エルンストの息子である後の辺境伯ゲオルク・ヴィルヘルムは1701年に、当時は独立した自治体であったザンクト・ゲオルゲン・アム・ゼー(現在のザンクト・ゲオルゲン地区)にオーデンスシュロスと呼ばれる宮殿や市庁舎、刑務所、さらには小規模な兵舎を建てた。1705年には "Orden der Aufrichtigkeit"(忠誠騎士団)を創設し(1734年に赤鷲騎士団と改名)、騎士団教会を建造、1711年に完成した。1716年、ザンクト・ゲオルゲンでは豪華な高級陶器の工房が開かれた。1735年には、老人養護施設のための私的基金、ザンクト・ゲオルゲンのグラーフェンロイター基金が創設された。
エレミタージュの庭園にある最初の宮殿もこのゲオルク・ヴィルヘルムの時代(1715年 - 1719年)に建造された。1440年にマルクト広場の真ん中に建造され、大火で焼け落ちた市庁舎の代わりに、1721年、市参事会はスポンハイム男爵夫人の館を手に入れた(現在の旧市庁舎)。
フリードリヒ3世とヴィルヘルミーネの辺境伯夫妻の治世(1735年 - 1763年)にバイロイトはその歴史の頂点を迎える。ヴィルヘルミーネはプロイセン王フリードリヒ2世の姉で、2人はきわめて仲の良い姉弟であった。この時代、宮廷建築家のジョゼフ・サン・ピエールとカール・フォン・ゴンタルトにより数多くの印象的な建造物が造営された。豊かな装飾を施されたバロック様式の劇場である辺境伯歌劇場(1744年 - 1748年)、ゾンネンテンペル(太陽の神殿)を有する新エレミタージュ宮殿を建造するなどエレミタージュの改造・拡張(1749年 - 1753年)、辺境伯夫人の不注意から焼失してしまった旧宮殿に替わって建てられた王宮付属庭園を持つ新宮殿(1754年 - )、現在のフリードリヒ通りの見事な拡張・改造など。古くて陰気な門衛所は取り壊された。こうした防衛施設は時代遅れで、市壁は都市の発展を妨げるだけのものになっていた。
1742年にフリードリヒ・アカデミー(後のエアランゲン大学)が創設され、翌1743年に大学に昇格したが、学生達の騒々しさから市民は大学に消極的な姿勢を示し、同年に大学はエアランゲンに移転した。1756年から1763年にかけては自由学科と教養のアカデミーも運営されていた。
ヴィルヘルミーネは1758年に亡くなった。フリードリヒ3世は再婚するが、この結婚期間は短いもので、後継者となる子供は生まれなかった。1763年のフリードリヒの死後即位した叔父のフリードリヒ・クリスティアンは財力も芸術的なセンスも持ち合わせていなかったため、多くの芸術家や手工芸作家がフリードリヒ2世に雇い入れてもらうためにベルリンやポツダムへと去っていった。
最後の辺境伯カール・アレクサンダーが1791年12月2日にアンスバッハ侯領とバイロイト侯領を放棄した後、この地域はプロイセン王国の一行政区画となった。プロイセンの大臣ハルデンベルク男爵カール・アウグストが1792年の初めから執務に就いた。クルムバッハ=バイロイト地域のホーエンツォレルン家の領有は、1806年のナポレオン戦争でのプロイセンの敗北により終結した。1806年から1810年までの間、バイロイトはフランスの統治下に置かれ、高額の戦後補償を支払い、司令官カミーユ・ド・トゥルノン(Camille de Tournon)の下で当時のバイエルン侯領の詳細な財産目録を作成しなければならなかった。1810年6月30日にフランス軍はかつての侯領をバイエルン王国に譲渡した。バイエルン王国が1500万フランで購入したのである。バイロイトは、バイエルン王国のマイン郡の郡庁所在地となった。
ニュルンベルクからリヒテンフェルス、クルムバッハ及びノイエンマルクト=ヴィルスベルクを経由してホーフへ通じていた幹線鉄道を、バイロイト経由にさせることでバイロイトの発展を図ろうという試みがなされた。鉄道網がバイロイトに敷設されたのは1853年で、バイロイト市が費用を負担してバイロイト-ノイエンマルクト間を完成させた。これに続いて、1863年にヴァイデンへ、1879年にシュナーベルヴァイトへの鉄道が開通した。1896年にはヴァルメンシュタイナハへのローカル線、1904年にはホルフェルトへのローカル線、1909年には『ツルナウアー・ボッケラ』と呼ばれるノイドロッセンフェルト、ツルナウを経由してクルムバッハに通じるローカル線も開業した。
1870年4月17日、リヒャルト・ワーグナーがバイロイトを訪れた。辺境伯歌劇場が彼の作品を上演するのに十分な広さがあるかを視察に来たのだった。オーケストラピットは、たとえば『ニーベルングの指環』を演奏する奏者を容れることができず、観客の収容人数も彼の理想とする『未来芸術』を普及させるには不十分であった。このため彼は、バイロイトに新たな祝祭劇場を建設するというプランを心に抱いたのである。市は彼の計画を支持し、駅と郊外の高台との間にあたる市外の未開墾地グリューナー・ヒューゲル(緑の丘)を自由に使って良い敷地として用意した。同時にワーグナーは王宮庭園の近くに住居(ヴァンフリート館)を建設するための土地も手に入れた。1872年5月22日に祝祭劇場のための基礎工事が始まり、1876年8月14日、厳粛に開館された。設計・施工監督はライプツィヒの建築家オットー・ブリュックヴァルトの手に委ねられた。彼はすでにライプツィヒやアルテンブルクで劇場建設の経験を積んでいた。
1918年の第一次世界大戦終結後、バイロイトでは労兵協議会が短期間ながら権力の座に就いた。1932年オーバーフランケン行政管区とミッテルフランケン行政管区を統合して、政庁をアンスバッハに置くこととなった。バイロイトには、その替わりにオーバーフランケン・ミッテルフランケン保険機構の本部が置かれた。1933年、バイロイトは、ナチスのバイエルン・オストマルク大管区(1943年以降バイロイト大管区と改名)の政庁所在地となる。初代の地区指導者にはハンス・シェムが就き、同時にやはりバイロイトに拠点を置いたナチスの民族社会主義教員同盟(NSLB)の指導者にも就任した。1937年には新しいアウトバーンの建設が始まった。
1945年4月5日、8日、11日の激しい空襲により多くの公的機関、工場、さらには4,500戸もの住宅が破壊され、741名の人命が失われた。4月14日にはアメリカ軍がこの都市を占拠した。
第二次世界大戦後、バイロイトはアメリカの管理地区に属した。アメリカの軍事管理政府は、DP(Displaced Persons)とよばれた難民達のための収容キャンプを設立した。その多くはウクライナからの避難民であった。この収容所は、連合国救済復興基金(UNRRA)の管理下に置かれた。
1949年、バイロイトはオーバーフランケン管区の政庁所在地となった。市内では、上級市長となったハンス=ヴァルター・ヴィルトの指導下、破壊された大部分の歴史的建造物の復元にたゆみない努力が傾注された。1951年、戦後初のバイロイト音楽祭が、ヴィーラント・ワーグナーおよびヴォルフガング・ワーグナーの主宰で開催された。
1971年、バイエルン州議会はバイロイト大学の創設を決定し、1975年11月3日、講義と研究活動が開始された。この大学の平均の学生数はおよそ9,000人に上る。
中世から近世初期にかけて、バイロイトの人口は数千人であった。人口はゆっくりと増加したが、度重なる戦争や疫病あるいは飢饉によって絶えず減少の危機にあった。1430年にフス教徒らがこの都市を破壊し、1602年にはペストの流行で約1,000人の住人が犠牲となった。三十年戦争(1618年 - 1648年)でも人口は減少した。19世紀に工業化が始まると人口は初めて大きく増加した。1818年には10,000人だった人口は、1900年には約30,000人になっていた。
1939年まで人口は増加を続け、多くの村が1939年4月1日に合併したこともあり、人口は45,000人となった。第二次世界大戦直後にはドイツ東部からの避難民や引き揚げ者で11,000人増加して、1946年10月の56,000人であった。1970年代からは、大学が創設された効果もあって人口はさらに増加を続けた。2005年6月30日の調査による人口は、74,137人であった。このうち、63.7%がプロテスタント、28.8%がカトリックの信者である。
以下の表は、各時点での市域における人口を示している。1818年までは推定値である。それ以降は、国勢調査結果 (¹)あるいは州統計局の集計による数値である。
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¹ 国勢調査結果
2020年3月15日の選挙結果に基づく政党別議席配分[3]。
政党名 | 得票率 (%) | 議席数 |
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CSU | 24.1 | 10 |
GRÜNE | 18.0 | 8 |
SPD | 17.7 | 8 |
Bayreuther Gemeinschaft-Freie Wähler | 15.3 | 7 |
Junges Bayreuth | 6.5 | 3 |
FDP | 5.3 | 2 |
Die Unabhängigen | 5.0 | 2 |
AfD | 3.9 | 2 |
Frauenliste | 2.4 | 1 |
Linke | 1.7 | 1 |
第二次世界大戦後のバイロイト市の上級市長は以下の通り。
1955年にエーガー郡のフランチェシュコヴィ・ラーズニェから追放されたズデーテン人に対して協力関係を結んだ。
ブランデンブルク選帝侯を兼ねた辺境伯アルブレヒト・アヒレスが1457年12月に、現在も使われている紋章をバイロイト市に授けた。左上と右下の白と黒の四分割はホーエンツォレルン家の紋章である。他の区画の、紅白で縁取られた金地に描かれた黒い獅子はニュルンベルク城伯のアムトの紋章である。対角線上に2本のロイテン、つまり軽く曲がった柄を持つ小さな三角のスコップが描かれている。この図柄は、町の名前の語尾「-reuth」("reuten" = 開墾する)を連想させる。
市バスは、20分間隔から、多くの路線では30分間隔で運行しているが、たとえば11番の路線のように1時間ごとの運行路線もある。夜間は本数が減るので、多くの路線では電話で申し込むバス代行タクシーを利用することになる。
バイロイトの鉄道設備は、都市の大きさの割にはかなり貧しい状態にある。バイロイト発の鉄道路線はいずれも単線で電化もされていない。そうした鉄道路線として、バイロイト - シュナーベルヴァイト線、バイロイト - キルヒェンライバッハ(シュパイヒャースドルフ)線、バイロイト - ノイエンマルクト線がある。長距離列車は通常、近隣のリヒテンフェルスやニュルンベルクを経由している。
こうした不備を何とか改善しようと、1992年にまずバイロイト - ニュルンベルク線から振り子式車両(BR 610)が導入された。この他に
といった動きがある。
バイロイト空港(ビンドラッハー・ベルク空港)が存在するが、フランクフルト・アム・マインへの定期航路は2002年に閉鎖され、現在定期航路は無い。定期航路のある最寄空港はニュルンベルク空港である。
(いずれもドイツ語サイト。以上の参考文献、外部リンクはドイツ語版に挙げられていたものであり、日本語版作成時に直接参照はしておりません。)